■原典

・方丈記




■史料

 治承四年水無月の比、にはかに都遷り侍りき。いと思ひの外なりし事なり。おほかた、この京(1)のはじめを聞ける事は、嵯峨の天皇の御時、都と定まりにけるより後、すでに四百余歳(2)を経たり。ことなるゆゑ(3)なくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人安からず憂へあへる、実にことわりにも過ぎたり。

 されど、とかくいふかひなくて(4)、帝(5)より始め奉りて、大臣・公みな悉く移ろひ給ひぬ。…

 軒を争ひし人のすまひ、日を経つつ荒れゆく。家はこぼたれて(6)淀河に浮び(7)、地は目のまへに畠となる。人の心みな改まりて、ただ馬・鞍をのみ重くす。牛・車を用する人なし(8)。西南海の領所を願ひて、東北の庄園を好まず(9)




■注釈

(1)平安京のこと。  (2)平城太上天皇の変をもとに、「方丈記」の成立年を考慮すると400年ほど。

(3)「特別な根拠」の意。  (4)「言っても始まらないので」の意。  (5)安徳天皇を指す。

(6)「家が取り壊されて」の意。  (7)解体後に筏として組まれ、大阪湾まで運ばれた。

(8)当時の風俗が、公家風から武家風へと転換していたことを示す。  

(9)西海道と南海道はいずれも平氏の勢力下にあり、東海道・東山道・北陸道は源氏の勢力下にあったため、荘園の年貢徴収状況はあまり良くなかった。




■現代語訳(口語訳)

 治寿4(1180)年、6月ごろ急に遷都が行われた。全く思いがけないことであった。だいたいこの平安京のはじまりについて聞いていることは、嵯峨天皇の御代に都と定まったもので、その後今日まで、すでに400年以上も経過したのである。都というものは特別な理由もないのに簡単に変わるべきではないものでもないので、今度の遷都について人々がひととおりでなく心配しあったのも、誠に当然すぎることであった。

 しかし、あれこれいっても仕方がないので、天皇をはじめとして大臣・公卿の全てが新都へお移りになった。

 軒を並べて建っていた住宅は日に日に荒れていった。家は取り壊され、その材木は淀川に浮かび、宅地はみるみるうちに畑となってしまう。人の考え方も変化して、馬・鞍ばかりが大切にされている。牛や車を用いる人はいない。西海道・南海道方面の領地をもらうことを願って、東国・北陸方面の荘園を好まない。




次の投稿に進む →


>> 一覧に戻る <<

■原典

・玉葉




■史料

 (寿永二年閏十月十三日)東海・東山・北陸三道の庄園国領(1)、本の如く領知(2)すべきの由、宣下せらるべきの旨、頼朝申し請う。仍て宣旨(3)を下さるるの処、北陸道許り義仲を恐るるに依り、其の宣旨を成されず。

 (寿永二年閏十月二十二日)先日の宣旨に云く、東海・東山道等の庄土、服せざらなる輩あらば、頼朝に触れ沙汰を致すべしと云々。




■注釈

(1)「公領」のこと。  (2)「本家や領家、国司が押領された土地を以前の形で支配する」こと。

(3)天皇の命令を伝える文書のこと。




■現代語訳(口語訳)

 東海・東山・北陸道の荘園や公領を、以前と同じように支配させよと命令していただきたいと頼朝が申し入れてきた。よって、宣旨を下されたが、義仲を恐れて北陸道だけは宣旨に加えなかった。

 先日の宣旨によると、東海・東山道の荘園・公領で宣旨に従わない者がいれば頼朝に命令によって追討させよということだ。


← 前の投稿に戻る


次の投稿に進む →


>> 一覧に戻る <<

■原典

・吾妻鏡

・玉葉




■史料

① 守護・地頭の設置〔吾妻鏡〕

(文治元年十一月)十二日辛卯、…凡そ今度の次第、関東(1)の重事たるの間、沙汰の篇、始終の趣(2)、太だ思食し煩ふの処、因幡前司広元(3)申して云ふ。世已に澆季、梟悪の者尤も秋を得たる也。天下に反逆の輩有るの条、更に断絶すべからず。而るに、東海道の内に於ては御居所たるに依て、静謐せしむと雖も、奸濫定めて他方に起らん歟。之を相鎮めんが為、毎度東士を発遣せらるるは、人人の煩也。国の費也。此の次を以て、諸国に御沙汰を交へ、国衙庄園毎に、守護地頭を補せらるれば、強ち怖るる所有るべからず。早く申し請けしめ給ふべしと云云。二品(4)殊に甘心し、此儀を以て治定す。

 諸国平均に守護地頭を補任し、権門勢下庄公(5)を論ぜず、兵糧米(6)(段別五升)を宛て課すべきの由、今夜、北条殿(7)、藤中納言経房卿(8)に謁し申すと云々。




② 守護・地頭の設置〔玉葉〕

 廿八日(丁未)、…又聞く、件の北条丸以下郎従等、相分ちて五畿・山陰・山陽・南海・西海の諸国を賜はり、庄公を論ぜず、兵粮(段別五升)を宛て催す(9)べし。啻に兵粮の催しのみにあらず、惣じて以て田地を知行(10)すべしと云云。凡そ言語の及ぶ所にあらず。




■注釈

(1)鎌倉幕府のこと。  (2)「前後の有様」の意。  (3)大江広元のこと。

(4)源頼朝のこと。  (5)「荘園・公領を問わず」の意。  (6)荘園や公領に課す米

(7)北条時政のこと。  (8)藤原経房のこと。  (9)「徴収する」の意。

(10)「土地を支配する」の意。




■現代語訳(口語訳)

① 守護・地頭の設置〔吾妻鏡〕

 1185年、この度の事は鎌倉幕府にとって重大なことで、頼朝は対策に苦慮していた。大江広元は「諸国に命じて、公領や荘園ごとに守護と地頭を任命すれば心配することはありません。…(中略)…早く朝廷に申請してください」と進言した。頼朝は関心して、このように決定した。

 諸国に守護・地頭を任命し、権勢の盛んな貴族・寺社の荘園や公領を問わず、兵粮米段別五升を課税するようにと、今夜北条時政が藤原経房に申し入れた。


② 守護・地頭の設置〔玉葉〕

 1185年、また聞くには例の北条時政以下の従者たちが、それぞれ五畿・山陰・山陽・南海・西海の諸国を賜り、荘園・公領を問わず兵粮米を徴収するだけでなく、土地の支配も行うということである。全く言語道断である。





← 前の投稿に戻る


次の投稿に進む →


>> 一覧に戻る <<

■原典

・吾妻鏡




■史料

尼将軍北条政子の訴え

 (承久三年五月)十九日壬寅、…二品(1)、家人等を 簾下に招き、秋田城介景盛(2)を以て示し含めて曰く、「皆心を一にして奉るべし。是れ最後の詞なり。故右大将軍(3)、朝敵を征罰し、関東を草創(4)してより以降、官位と云ひ、俸禄と云ひ、其の恩、既に山岳よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志浅からんや。而るに今、逆臣の讒に依りて非義の綸旨(5)を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討取り、三代の将軍の遺跡(6)を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべし」者、群参の士、悉く命に応じ、且つは涙に溺れて返報を申すこと委しからず。只命を軽んじて恩に酬いんことを思ふ。

■注釈

(1)北条政子のこと。  (2)安達泰盛(政子の側近)  (3)源頼朝のこと。  

(4)「鎌倉幕府創設」の意。  (5)北条義時追討の宣旨のこと。 (6)残された家や所領のこと。




■現代語訳(口語訳)

 1221年、北条政子は御家人らを集め、安達景盛に伝えさせた。「皆心を1つにして聞きなさい。これが最後の言葉です。源頼朝が平氏を滅し、鎌倉幕府を設立して依頼、官位・俸禄を頂戴した御恩は山よりも高く、海よりも深い。奉公の志は深いはず。しかし、今は逆臣の非難を受けて義時追討の宣旨が出ました。」(以下、省略)




← 前の投稿に戻る


次の投稿に進む →



>> 一覧に戻る <<


■原典

・神皇正統記




■史料

北畠親房の承久の乱論

 次ニ王者ノ軍ト云ハ、トガアルヲ討ジテ、キズナキヲバホロボサズ。頼朝高官ニノボリ、守護ノ職ヲ給、コレミナ法皇(1)ノ勅裁也。ワタクシニヌスメリトハサダメガタシ。後室(2)ソノ跡ヲハカラヒ、義時久ク彼ガ権ヲトリテ、人望ニソムカザリシカバ、下ニハイマダキズ有トイフベカラズ。一往ノイハレバカリニテ追討セラレンハ、上ノ御トガ(3)トヤ申ベキ。謀叛オコシタル朝敵ノ利ヲ得タルニハ比量セラレガタシ。カカレバ時ノイタラズ、天ノユルサヌコトハウタガヒナシ。




■注釈

(1)義白河法皇のこと。  (2)北条政子のこと。  (3)「後鳥羽上皇の罪」の意。




■現代語訳(口語訳)

 王者の戰とは、罪のあるものだけを討って、罪のないものは滅ぼさないものである。源頼朝が高官にのぼり、守護の職を得たのもご白河法皇の裁断である。自分勝手に奪ったものとはいえない。北条政子が後を継ぎ、北条義時は執権となるが、人望に背いていらず罪があるとはいえない。源氏が三代で途切れたという理由で義時を追討するのは、後鳥羽上皇の罪である。謀叛を起こした朝敵が勝利した例とは比較できないものである。そうであれば、機は熱しておらず、天も許さぬことであったのは疑いないことである。




← 前の投稿に戻る


次の投稿に進む →


>> 一覧に戻る <<

■原典

・新編追加




■史料

 去去年兵乱(1)以後、諸国庄園郷保(2)に補せらるる所の地頭(3)、沙汰の条条

一、得分(4)の事

 右、宣旨(5)の状の如くんば、仮令、田畠各拾一町の内、十町は領家国司の分、一丁は地頭の分、広博狭小を嫌はず、此の率法を以て免給するの上、加徴(6)は段別に五升を充て行なはるべしと云云。尤も以て神妙なり。但し此の中、本より将軍家の御下知を帯し、地頭たる輩の跡、没収の職として改補せらるるの所所に於ては、得分縦ひ減少す(7)と雖も、今更加増の限にあらず。是旧儀に依るべきの故也。加之、新補の中、本司(8)の跡、得分尋常(9)の地に至りては、又以て成敗に及ばず。只、得分無き所所を勘注し、宣下の旨を守り、計ひ充てしむべき也。

   貞応二年七月六日           前陸奥守(10) 判

    相模守殿(11)




■注釈

(1)承久の乱のこと。  (2)公領の単位を指す。  (3)新補地頭のこと。

(4)地頭に配分された収益のこと。  (5)太政官布にかわる文書形式で官宣旨のこと。

(6)租税への付加徴収のこと。

(7)「従来の地頭の収益率が新補地頭の収益率の基準を下回っても」の意。

(8)地頭が任命される以前にいた荘官のこと。  (9)「世間一般の水準」の意。

(10)執権北条時房のこと。  (11)六波羅探題北条時房のこと。




■現代語訳(口語訳)

 一昨年の兵乱以後、諸国の荘園と公領の郷・保に任命された地頭についての裁定の事ども

一、地頭の収益について

これについては宣旨の内容によると、例えば田畑各11町のうち、10町は領家や国司の取り分で、1町は地頭の取り分とし、面積の大小関わらず、この比率で給田を地頭に与えた上、課徴米として田畑1段につき5升を割り当てて支給するとのことであった。まことに立派な裁定である。




← 前の投稿に戻る


次の投稿に進む →



>> 一覧に戻る <<

■原典

・唯浄裏書、九月十一日付消息文




■史料

 さてこの式目をつくられ候ハ、なにを本説(1)として注し載せらるるの由、人さためて謗難(2)を加ふる事候歟。ま事にさせる(3)本文にすかり(4)たる事候はねとも、たたたうりのおすところ(5)を記され候者也。…(中略)…この式目ハ只かなをしれる物の世間におほく候ことく、あまねく人に心えやすからせんために、武家の人へのはからひのためはかりに候。あまりて京都の御沙汰、律令のおきて聊もあらたまるへきにあらす候也。




■注釈

(1)「基礎」の意。  (2)「非難」の意。  (3)「これといえるもの」の意。

(4)「よりどころ」「参考」の意。  (5)「道理の示すところ」の意。武家社会における慣習のこと。




■現代語訳(口語訳)

 この式目は何を基礎にして作成したのかと公家は非難するだろう。これと言えるものを参考にしたわけではなく、ただ武家社会の道理(慣例・道徳)を記したものである。この式目は仮名しか知らない者が世間には多いので、広く人々が理解しやすく、武家の人々への便宜のために定めたものである。これによって朝廷の法である律令が変わることはない。




← 前の投稿に戻る


次の投稿に進む →


>> 一覧に戻る <<

■原典

・御成敗式目




■史料

一、諸国守護人(1)奉行の事

 右、右大将家(2)の御時定め置かるる所は、大番催促(3)・謀叛・殺害人付、夜討・強盗・山賊・海賊等の事也。…


一、諸国の地頭、年貢所当(4)を抑留せしむる事

 右、年貢を抑留するの由、本所(5)の訴訟有らば、即ち結解を遂げ勘定を請くべし(6)。犯用の条、若し遁るる所なくば、員数に任せて之を弁償すべし。…猶此の旨に背き難渋せしめば、所職を改易せらるべき也。


一、御下文(7)を帯ぶると雖も知行(8)せしめず、年序(9)を経る所領の事

 右、当知行の後、廿ヵ年を過ぎば、大将家の例に任せて理非を論ぜず(10)改替に能はず。而るに知行の由を申して御下文を掠め給はるの輩、彼の状を帯ぶると雖も叙用(11)に及ばず。


一、女人養子の事

 右、法意(12)の如くは之を許さずと雖も、大将家の御時以来当世に至るまで、其の子無きの女人等所領を養子に譲り与ふる事、不易の法(13)勝計すべからず(14)。加之(15)、都鄙の例先蹤(せんしょう)惟れ多し(16)。評議の処(17)、尤も信用に足る歟。




■注釈

(1)職務として遂行する任務のこと。  (2)源頼朝のこと。右大将家に任命されたことに由来する。

(3)京都大番役に御家人を督促する公事のこと。  (4)年貢と同じ意味。  (5)「荘園領主」のこと。

(6)「年貢の未納と既納などを明らかにして裁定を下すこと」の意。

(7)「本領安堵・新恩給与の下文」のこと。  (8)「事実上の支配」のこと。

(9)「相当期間の年数」のこと。  (10)「権利の正当性に関係になく」の意。

(11)「取り上げて用いる」の意。  (12)律令の趣旨。  (13)「武家の慣習法」のこと。

(14)「数え切れないほどである」の意。  (15)「そればかりでなく」。

(16)「国内各地で前例も多い」の意。  (17)式目の制定における評定会議の審議内容のこと。




■現代語訳(口語訳)

一、諸国の守護の職務のこと

 右大将源頼朝の時代に定められたことは、大番役の催促、謀叛人・殺害人の逮捕である。それに加えて夜討、強盗、山賊・海賊の逮捕などである。…


一、諸国の地頭、年貢所当を横領していること

 地頭が年貢を横領していると荘園領主から訴訟があった場合、すぐに既納と未納を明らかにして裁定を受けよ。本所の収益とすべき分を横領していることが明らかになった場合には、所定の裁量を弁償せよ。…これに背いたならば地頭の権利を取り上げる。


一、本領安堵や新恩給与の下文を持っていても、実際に所領支配のないままに所定の年数を経た所領について

 実際の支配が20年を過ぎた場合には、慣例により権利の正当性に関わらず変更することはない。しかし、実際に支配していると偽って下文をもらった者が、証拠書類を有しているからと言ってもその主張は採用されない。


一、女性が養子をとることについて

 律令の趣旨では許されていないが、大将家(頼朝)の時代から今日に至るまで、子のいない女性が所領を養子に譲与することは、武家社会の変わらぬしきたりとして数え切れないほど多い。そればかりでなく、国内の各地で前例も多い。評定会議の決定としても確かなものである。





← 前の投稿に戻る


次の投稿に進む →


>> 一覧に戻る <<

■原典

・東大寺文書




■史料

下す茜部御庄(1)住民等

 早く地頭請所(2)として御年貢を進済せしむべき事

 右、当御庄は、是れ預所の沙汰たり。百疋・千両を弁じ難き(3)に依り、地頭の沙汰として、請文(4)の状に任せ、御年貢を進済せしむべき也。住民等宜しく承知し、違失(5)すべからざるの状、件の如し。故に下す。

  貞応二年八月  日

 別当僧正前法務在判




■注釈

(1)東大寺の荘園。現在の岐阜市茜部にあたる。  (2)地頭に年貢納入を請け負わせた土地。

(3)「徴収できない」の意。  (4)年貢請負を確実に履行することを約束した文書のこと。

(5)「間違うこと」「しくじること」の意。




■現代語訳(口語訳)

 下す 茜部庄の住民ら

 地頭請けの荘園として、早く年貢を納めること。

 この茜部庄は預所の管理であったが、、預所では絹100疋・綿1000両を徴収できないので、今後は地頭の管理により請文の通りに年貢を納めるようにせよ。住民らに承知させ、間違いのないようにすること。




← 前の投稿に戻る


次の投稿に進む →


>> 一覧に戻る <<

■原典

・金剛三昧院文書




■史料

和与(1)

 備後国神崎庄(2)下地(3)以下所務(4)条条の事

 右、当庄の領家高野山金剛三昧院(5)内遍照院雑掌(6)行盛と、地頭阿野侍従殿季継御代官助景の相論する(7)、当庄下地以下所務条条の事、訴陳に番ふ(8)と雖も、当寺の知行の間、別儀(9)を以て之を和与せしめ、田畠山河以下の下地は中分せしめ、各一円の所務を致すべし。仍って和与の状、件の如し。

   文保弐年二月十七日   地頭代左衛門尉助景 在判

               雑 掌    行盛 在判




■注釈

(1)幕府の裁定を得るよりも先に当事者間で和解すること。  (2)現広島県世羅郡世羅町。

(3)領主の収益の対象となる所領のこと。  (4)荘園を管理し、年貢を納めること。

(5)高野山金剛峯寺の塔頭の1つ。北条政子が建立。

(6)荘園関係の訴訟の際、本所側を代表して活動する訴訟代理人のこと。

(7)「争い」の意。  (8)原告からの訴状と被告からの陳状をそれぞれ三度提出して論争した。

(9)「格別・特別な事情」の意。




■現代語訳(口語訳)

 備後国神崎庄の土地の管理をはじめとする訴訟の和解のこと

 神崎荘の領家である高野山金剛峯寺三昧院の中にある遍照院の雑掌行盛と、地頭の阿野侍従殿(季継)の代官助景との間の土地管理についての争いは、裁判となって互いに訴状と陳状のやりとりを行ったが、金剛三昧院の支配地という特別な事情によって和解することとする。田畠・山河以下の現地は領家と地頭で中分し、それぞれ相互の干渉を排除して支配するものとする。和解の内容は以上の通りです。


文保2(1318)年2月17日

 地頭代左衛門尉助景

 雑掌行盛




← 前の投稿に戻る


次の投稿に進む →


>> 一覧に戻る <<

■原典

・高野山文書




■史料

阿テ河ノ上村(1)百姓ラツツシテ言上

一、ヲンサイモク(2)ノコト。アルイワチトウノキヤウシヤウ(3)、アルイワチカフ(4)トマウシ、カクノコトクノ人フヲ、チトウノカタエせメツカワレ候ヘハ、ヲマヒマ候ワス候。ソノノコリ(5)、ワツカニモレノコリテ候人フヲ、サイモクノヤマイタシ(6)エ、イテタテ候エハ、テウマウノアト(7)ノムキマケト候テ、ヲイモトシ(8)候イヌ。ヲレラカコノムキマカヌモノナラハ、メコトモヲヲイコメ、ミミヲキリ、ハナヲソキ、カミヲキリテ、アマニナシテ、ナワホタシヲウチテ(9)、サエナマント候ウテ、せメせンカウ(10)せラレ候アイタ、ヲンサイモク、イヨイヨヲソナワリ候イヌ。ソノウエ百姓ノサイケイチウ、チトウトノエコホチトリ候イヌ。

  ケンチカン子ン十月廿八日  百姓ラカ上




■注釈

(1)紀伊国(現和歌山県)有田郡阿氐河荘のこと。  (2)雑税の一種である材木のこと。

(3)京都大番役のため、地頭が京都に上ること。  (4)付近で労働する人夫役のこと。

(5)「地頭に駆り出された残りの人数」のこと。  (6)「材木の切り出し」の意。

(7)「逃亡した農民の耕地」の意。  (8)「山から追い戻す」の意。

(9)「(縄で)縛る」の意。  (10)「きびしく責め立てる」の意。




■現代語訳(口語訳)

阿氐河荘上村の百姓訴状

一、材木の納入が遅れている要因は、地頭が上京や作業があるといって人夫を使うからです。残った僅かな人夫を材木の切り出しに出せば、地頭は逃亡した百姓の畑に麦をまけといい、山から追い出します。麦をまかなければ、妻や子どもたちの耳や鼻をそぎ、髪を切り尼にして、縄で縛って痛めつけるぞと厳しく責め立てます。このため、材木の納入がますます遅れています。




← 前の投稿に戻る

 
 

次の投稿に進む →

 
 

>> 一覧に戻る <<

■原典

・志賀文書




■史料

所領配分の事

 嫡男大炊助入道分(大友能直の長男親秀) 相模国大友郷地頭郷司職

 次男宅万別当分(詫磨能秀) 豊後国大野庄内志賀村半分地頭職(以下六人略)

右、件の所領等は、故豊前前司能直朝臣、代代将軍家の御下文を賜り、相違無く知行し来たる所也。而るに尼深妙、亡夫能直の譲りを得て、将軍家の御下文を賜り、領掌せしむる所也。之に依り能直の遺言に任せ、孚数子等の為に此の如く配分する所也。…但し、関東御公事仰せ下さるる時は、嫡男大炊助入道の支配を守り、所領の多少に随ひ、其の沙汰を致すべき也。…尼深妙

(花押)




■注釈




■現代語訳(口語訳)





← 前の投稿に戻る

 
 

次の投稿に進む →

 
 

>> 一覧に戻る <<

■原典

・東寺百合文書




■史料

① 関東御事書の法

一、質券売買地の事  永仁五年三月六日

 右、地頭・御家人の買得地に於ては、本条を守り、廿箇年を過ぐる者は本主は取返すに及ばず。非御家人 并びに凡下の輩の買得地に至りては、年記の遠近を謂はず本主は之を取返すべし。


② 関東より六波羅へ送らるる御事書の法

一、越訴を停止すべき事

 右、越訴の道、年を逐って加増す。棄て置くの輩は、多く濫訴に疲れ、得理の仁は、猶安堵し難し。諸人の侘傺、職として此に由る。自今以後之を停止すべし。…


一、質券売買地の事

 右、所領を以て或は質券に入れ流し、或は売買せしむるの条、御家人等侘傺の基也。向後に於ては停止に従ふべし。以前沽却の分に至りては、本主は領掌せしむべし。但し或は御下文・下知状を成し給ひ、或は知行廿箇年を過ぐる者は公私の領を論ぜず、今更相違有るべからず。若し制符に背き、濫妨を致すの輩有らば、罪科に処せらるべし。

 次に非御家人・凡下の輩の質券買得地の事、年紀を過ぐると雖も売主知行せしむべし。


一、利銭出挙の事

 右、甲乙の輩要用の時、煩費を顧みず、負累せしむるに依り、富有の仁は其の利潤を専らにし、窮困の族はいよいよ侘傺に及ぶか。自今以後成敗に及ばず。…




■注釈




■現代語訳(口語訳)





← 前の投稿に戻る

 
 

次の投稿に進む →

 
 

>> 一覧に戻る <<

■原典

・歎異抄(悪人正機説)

・正法眼蔵随聞記(只管打坐)

・愚管抄

・一枚起請文(専修念仏)




■史料

① 悪人正機説〔歎異抄〕

 一、「善人(1)なをもちて往生をとぐ、いはんや悪人(2)をや。しかるを、世のひとつねにいはく、『悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや』と。この条、一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善(3)の人は、ひとへに他力(4)をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願(5)にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。

 煩悩具足(6)のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを哀たまひて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因(7)なり。よりて善人だにこそ往生すれ、まして悪人は」と仰さふらひき。


② 只管打坐〔正法眼蔵随聞記〕

 一日弉問云、叢林(8)ノ勤学(9)ノ行履(10)ト云ハ如何。

 示云、只管打坐(11)也。或ハ閣上、或ハ楼下ニシテ、常坐ヲイトナム。人ニ交リ物語ヲセズ、…常ニ独坐ヲ好ム也。


③ 愚管抄〔愚管抄〕

 年ニソヘ日ニソヘテハ、物ノ道理(12)ヲノミ思ツヅケテ、老ノネザメヲモナグサメツツ、イトド、年モカタブキマカル(13)ママニ、世中モヒサシクミテ侍レバ、昔ヨリウツリマカル道理モアハレ(14)ニオボエテ、神ノ御代ハシラズ、人代トナリテ神武天皇ノ御後、百王トキコユル、スデニノコリスクナク、八十四代ニモ成ニケルナカニ、保元ノ乱イデキテノチノコトモ、マタ世継ガモノガタリト申モノモカキツギタル人ナシ。…世ノ道理ノウツリユク事ヲタテムニハ、一切ノ法ハタダ道理ト云二文字ガモツナリ。其ノ外ニハナニモナキ也。


④ 専修念仏〔一枚起請文〕

 もろこし我朝もろもろの智者たちの沙汰し申さるる観念の念にもあらず、また学問をして念の心をさとりて申す念仏にもあらず、ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申せば、うたがひなく往生するぞと思とりて申外には別の子細候はず。




■注釈

(1)造寺や造仏、写経などの仏教的な善を行い、慈悲の心を持つ仏のような人のこと。

(2)善行をすることができない、煩悩の深い人のこと。

(3)自分の力で往生の正しい条件である善行をすること。  (4)「阿弥陀仏の本願」の意。

(5)阿弥陀仏の48の請願のうち、衆生を全て救済する第18請願のこと。  

(6)煩悩を持ち、煩悩から逃れられないこと。  (7)「正しい条件」の意。

(8)禅宗寺院のこと。  (9)「修行」の意。  (10)「日常生活の行為」の意。  

(11)ひたすら座禅を組むこと。

(12)歴史を動かす原理のこと。  (13)「終わりに近づくこと」の意。

(14)「心に愛着を感じる」の意。




■現代語訳(口語訳)

① 悪人正機説〔歎異抄〕

「善人でさえ往生できる、まして悪人が往生できないことはない。しかし、世間の人は『悪人が往生できるなら、善人が往生できないわけがない』という。これはそれなりの道理をもってはいるが、弥陀の本願にすがるという趣旨に背いている。自分の知恵と力で善を為そうとする人は、弥陀の本願にすがる気持ちが欠けているため、弥陀の救済する対象ではないからである。

 私たちはどんな修行をしても煩悩から逃れられないのを哀れにお思いになり、弥陀が本願を起こされた真意は悪人を成仏させることにある。ひたすら弥陀の本願にすがる悪人こそが救われるのである。よって善人さえ往生できる。まして悪人は言うには及ばない」と親鸞上人は仰られた。

  
 

② 只管打坐〔正法眼蔵随聞記〕

 ある日、弟子の懐奘が「禅宗寺院の修行や日常生活の行為とはどのようなものですか」と尋ねた。それに道元は「只管打坐である。寺院の建物内外で、人と話もせず、常に座禅を好むことである」と答えた。

  
 

③ 愚管抄〔愚管抄〕

年月が経つにつれ、歴史を動かす原理のことばかりを考えてきた。老いて寝覚めがちな夜もそのことを考えて気持ちを慰めてきたが、私の障害も終わりになろうとしている。世の中を色々と見てきたから、昔から変化してきた道理に愛着を感じている。世の中の道理の変化を考えると、全ては道理という二文字に支えられ、そのほかには何もない。

 
 

④ 専修念仏〔一枚起請文〕

 




← 前の投稿に戻る

 
 

次の投稿に進む →

 
 

>> 一覧に戻る <<

■原典

・建武年間記




■史料

 此比都ニハヤル物、夜討強盗謀綸旨(1)、召人早馬虚騒動、生頸還俗自由出家、俄大名迷者、安堵恩賞虚軍、本領ハナルル訴訟人、文書入タル細j 、追従讒人(2)禅律僧、下克上スル成出者(3)、器用堪否沙汰モナク、モルル人ナキ決断所(4)、キツケヌ冠上ノキヌ、持モナラハヌ笏持テ、内裏マシハリ珍シヤ、賢者カホナル伝奏ハ、我モ我モトミユレトモ、巧ナルケル詐ハ、ヲロカナルニヤヲトルラム、…(中略)…

 誰ハ師匠トナケレトモ、遍ハヤル小笠懸(5)、事新キ風情也、京鎌倉ヲコキマセテ、一座ソロハヌエセ連歌、在在所所ノ歌連歌、点者ニナラヌ人ハナキ、譜第非成ノ差別ナク、自由狼藉ノ世界也。犬田楽(6)ハ関東ノ、ホロフル物ト云ナカラ、田楽ハナヲハヤル也、…




■注釈

(1)蔵人が天皇の命を奉じて出す文書のこと。  (2)おべっかや告げ口のこと。

(3)文中では「楠木正成」を指すとされる。  (4)雑書決断所のこと。

(5)馬上から小さな的を射る射技の1つ。  (6)「闘犬」と「田楽」のこと。




■現代語訳(口語訳)

 1334年、京都で流行するものは夜討ち、強盗、偽の綸旨、囚人護送の召人、地方変事を告げる早馬、意味のない騒ぎ。生首が転がり、還俗した僧侶、勝手に出家する者、急に大名となった者、落ちぶれて路頭に迷う者。本領安堵や恩賞目当てにありもしない戦の手柄を主張する者。本領を没収された訴訟人は、証拠文書を入れた細い葛を持って集まっている。おべっかや告げ口、政治に口出しする禅僧や律僧、下克上した成り上がり者。能力に関わらず、誰でも雑書決断所の職員に登用されている。着慣れない公家風の冠や衣装を身につけ、持ち慣れない笏を持って内裏に登るのは滑稽である。

 師匠を決めず、小笠懸が広く流行するのは新しい風情である。公家風や武家風の規則が混じり、一座が揃わない連歌では、誰もが優劣をつける点者になれる。古い家柄の者も成り上がり者も区別がなく、かって無法の世界である。闘犬と田楽で鎌倉時代は滅んだというのに田楽は流行っている。




← 前の投稿に戻る

 
 

次の投稿に進む →

 
 

>> 一覧に戻る <<

■原典

・建武式目




■史料

建武式目条条

 鎌倉元の如く柳営(1)たるべきか、他所たるべきや否やの事

…就中鎌倉郡は、文治に右幕下(2)始めて武館を構へ、承久に義時朝臣天下を幷呑す。武家に於ては尤も吉土と謂ふべきや。…但し、諸人若し遷移せんと欲せば、衆人の情に随ふべきか。

 政道の事

…古典に曰く、徳は是れ嘉政也、政は民を安んずるに在りと云云。早く万人の愁を休むるの儀、速かに御沙汰有るべきか。其の最要粗左に註す。

一、倹約を行はるべき事…

一、群飲佚遊(3)を制せらるべき事…

一、狼藉を鎮めらるべき事…

一、私宅の点定を止めらるべき事…

一、京中の空地、本主に返さるべき事…

一、無尽銭・土倉を興行せらるべき事…

一、諸国の守護人、殊に政務の器用を択ばるべき事…(以下条文略)

 以前(4)十七箇条、大概斯の如し…遠くは延喜・天暦の両聖(5)の徳化を訪ひ、近くは義時・泰時父子の行状を以て近代の師と為す。殊に万人帰仰の政道を施さるれば、四海安全の基たるべきか。…

  建武三年十一月七日           眞恵

                      是円




■注釈

(1)「幕府」のこと。  (2)右近衛大将の敬称。頼朝をさす。  

(3)「大人数での遊興や酒宴」のこと。  (4)「以上」の意。  (5)醍醐・村上天皇をさす。




■現代語訳(口語訳)

(1336年)幕府を鎌倉におくか他の場所に移すかについて。

鎌倉で源頼朝が幕府を構え、承久の乱後に北条義時が天下を支配した。武家にとって鎌倉は縁起の良い土地ではあるが、人々が別の場所が良いというのであればそれに従うのが良いだろう。

政治のこと

…古典によると、徳が嘉政である。政治は民の生活を安んずるためにある。早く民の心身が休まるよう、速やかに取り仕切るべきである。その内容を左の通り記す。


 (条文、省略)


 以上の17か条はおおよそこの通りで、醍醐・村上天皇の徳を顧み、義時・泰時の政治を模範としている。




← 前の投稿に戻る

 
 

次の投稿に進む →

 
 

>> 一覧に戻る <<

■原典

・建武以来追加




■史料

一 寺社本所領の事

 観応三年…の御沙汰…

 次に近江・美濃・尾張三ヶ国の本所領半分の事、兵糧料所(1)として、当年一作(2)、軍勢に預けおくべきの由、守護人等に相触れ訖ぬ(3)。半分に於いては、宜しく本所に分け渡すべし。




■注釈

(1)兵粮のこと。  (2)当年(観応3年)の年貢のこと。  (3)「知らせた」の意。




■現代語訳(口語訳)

 寺社・神社・公家などの所領について 1351年の命令

近江・美濃・尾張三カ国の公領・荘園の年貢の半分を兵粮料所として、今年1年に限り、その年貢を足利尊氏の軍に与えるように守護らに通知した。残りの年貢は、国司・荘園領主に渡すこと。




← 前の投稿に戻る

 
 

次の投稿に進む →

 
 

>> 一覧に戻る <<

■原典

・高野山文書




■史料

①高野山文書(一)

 高野領備後国太田庄并に桑原方地頭職尾道倉敷以下の事。

 下地に於ては知行致し、年貢に至りては毎年千石を寺納すべきの旨、山名右衛門佐入道常熙に仰せられ畢ぬ。早く存知すべきの由、仰せ下さるる所也。仍て執達件の如し。

 応永九年七月十九日  沙弥(花押)

      当寺衆徒中


②高野山文書(二)

高野山根本大塔雑掌(1)賢成 謹んで言上す

  備後国太田庄并に桑原方地頭職尾道倉敷等未進の事

 右、彼庄は…然るに鹿苑院(2)殿の御代応永九年、故山名右衛門佐殿請所の由申され、寺納千石の御教書成し下さるる間、愁訴を含むと雖も上意に応じ奉る処(3)、結句年年の未進、去る応永九年より永享十一年に至る二万六百余斛。

 目録別紙に之在り。…所詮、公方御累代の御願并に頼朝大将の御判、殊には鹿苑院殿様度度の御判の旨に任せ、元の如く寺家直務の御成敗を蒙らば、満山愁眉を開き、弥御祈■の精誠を抽んじ奉らん為に、粗謹んで言上件の如し。

 永享十二年三月 日




■注釈

(1)荘官の名称で預所の別称。  (2)足利義満のこと。  (3)守護請には反対してきたが、遂に幕府の命令を受けてしまった。




 

■現代語訳

①高野山文書(一)

 ※略

②高野山文書(二)

(1440年)高野山根本大塔の荘官賢成が謹んで申し上げる。

備後国(現広島県)太田庄と藤原郷の地頭職、尾道の倉敷等の年貢未納のこと

 これらの荘園は足利義満公の時代の1402年に、守護であった亡き山名右衞門佐殿の守護請の荘園として年貢1000石を寺納することとなりました。寺側は、守護請には反対してきましたが、遂に幕府の命令を受けることとなりました。しかし、結局毎年年貢を滞納し、1402年から1439年まで2万600余石の未納となっている。…

(以下、省略)




← 前の投稿に戻る


 

次の投稿に進む →


 

>> 一覧に戻る <<

■原典

・善隣国宝記




■史料

・足利義満の国書

 日本の准三后某(1)、書を大明皇帝陛下に上る。日本国開闢以来、聘問(2)を上邦(3)に通ぜざる無し。某幸に国鈞(4)を秉り、海内虞無し。特に往古の規法(5)に遵ひて、而して肥富(6)をして祖阿(7)に相副へて、好を通じて方物(8)を献ぜしむ。金千両、馬十匹、薄様千帖、扇百本、屏風三双、鎧一領、筒丸一領、劔十腰、刀一柄、硯筥一合、同文台一箇。海島に漂寄(9)の者の幾許人を捜り尋ねて、之を還す。

 某誠惶誠恐、頓首頓首謹言。


・明の国書

 茲(ここに)爾( なんじ)、日本国王源道義(10)、心王室(11)に存し、君を愛するの誠を懐(いだ)き、波濤を踰越し、使(12)を遣して来朝し、逋流(13)の人を帰し、…朕(14)甚だ嘉す。…今使者道彜(どうい)・一如を遣し、大統暦(15)を班示し正朔を奉ぜしめ(16)、…至らば領すべきなり。…




■注釈

(1)太皇太后、皇太后、皇后に準ずる地位の足利義満。  (2)挨拶の使者。 (3)「あなたの国」という意味で、ここでは明のこと。  (4)「国家を統治する」の意。  (5)古いしきたりの意味で、ここでは「遣唐使のしきたり」のこと。  (6)博多の豪商肥富のこと。  (7)側近の僧祖阿のこと。  (8)日本の産物のこと。(9)漂流者のこと。


(10)足利義満のこと。  (11)明の王室のこと。  (12)祖阿と肥富のこと。  (13)漂流者のこと。  (14)明の二代皇帝、建文帝のこと。  (15)明の暦  (16)「大統暦を使用させる」の意味で、暗に「明に従属させる」ことを意味する。




■現代語訳(口語訳)

 1401年、准三后の足利義満が国書を大明皇帝陛下に差し上げます。。日本が始まって以来、使者を貴国に遣わさなかったことはありません。私は幸いにも国家を統治し、国内に不安はありません。遣唐使のしきたりに従って祖阿を商人肥富に同行させて派遣し、友好を結ぶしるしに日本の産物として、金千両、馬十匹、上質の鳥の子紙千帖、扇百本、屏風三双、鎧一領、筒丸一領、剣十腰、刀一柄、硯箱一合、文机一箇を献上します。また、日本に漂着した人々を探し求め、若干人をお返しいたします。道義は、心から畏れ謹み、敬意を表して申し上げます。


1402年、日本国王源道義は明の皇帝を敬う気持ちがあり、使者を派遣して、漂流者を送り届けてきた。私(建文帝)はとても嬉しい。使者の道彜と一如を派遣して明の暦を授けるので使用すること。





← 前の投稿に戻る

 
 

次の投稿に進む →

 
 

>> 一覧に戻る <<

■原典

・日吉神社文書




■史料

定 今堀(1)地下掟の事

   合延徳元年己酉十一月四日

一、塩増雑事ハ、神主用意有ルヘシ。代ハ惣ヨリ出スヘク候。

一、薪・すミハ、惣ノヲタクヘシ。

一、惣ヨリ屋敷請(2)候て、村人ニテ無キ物置クヘカラサル候事。

一、他所の人を地下ニ請人(3)候ハて、置クヘカラス候事。

一、惣ノ地ト私ノサイメ(際目)相論ハ金ニテすますへし。

一、惣森(4)ニテ青木ハ葉かきたる物ハ、村人ハ村を落ス(5)ヘシ。村人ニテ無キ物ハ地下ヲハラウヘシ。

一、家売タル人ノ方ヨリ、百文ニハ三文ツツ、壱貫文ニハ卅文ツツ、惣ヘ出スヘキ者也。此の旨ヲ背ク村人ハ、座(6)ヲヌクヘキ也。…

一、家売リタ代、カクシタル人ヲハ、罰状(7)ヲスヘシ。

一、堀ヨリ東ヲハ屋敷ニスへカラス者也。




■注釈

(1)村の掟のこと。  (2)「屋敷を借りる」の意。  (3)身元の保証人のこと。  (4)村で所有する森。入会地のこと。  (5)村人の身分を剥奪すること。  (6)宮座(祭祀集団)からの除名。  (7)起請文のこと。取り決めに違反しないことを誓い合う証文。




■現代語訳(口語訳)

 今堀村の村法を寄合で、1489年に決定した。

一、塩とみその準備は神主がすること。代金は村から出すこと。

一、薪と炭は村のものを使うこと。

一、村人でないものは村の屋敷を借りることはできない。

一、他所の者は村人の身元保証人がいなければ村に住むことはできない。

一、村の土地と自分の土地との境界の争いは、金銭で解決すること。

一、入会地では無断伐採や採集を院試し、違反した村人は村人の身分を奪う。村人でないものならば村から追放する。

一、家を売った者は100文につき3文、1貫文につき30文を村に出すこと。違反した村人は宮座から除名する。

一、家を売った代金を隠した者は起請文を書くこと。

一、堀の東側より外に屋敷を建ててはならない。




← 前の投稿に戻る

 
 

次の投稿に進む →

 
 

>> 一覧に戻る <<

■原典

・大乗院日記目録




■史料

(正長元年九月)

…一天下(1)の土民(2)蜂起す。徳政と号し、酒屋、土倉(3)、寺院(4)等を破却せしめ、雑物等恣に之を取り、借銭等悉く之を破る。管領(5)之を成敗す。凡そ亡国の基、之に過ぐべからず。日本開白(6)以来、土民蜂起、是れ初めなり。




■注釈

(1)近畿地方のこと。  (2)農民や都市の庶民らのこと。  (3)金融業者  (4)祠堂銭で高利貸しをしていた。  (5)管領畠山満家のこと。  (6)はじまり、開け始めの意。




■現代語訳(口語訳)

正長元(1428)年9月、天下(近畿地方)の土民が蜂起した。徳政と号して(称して)酒屋・土倉・寺院を打ちこわし、質に入っていた雑物等を奪い取り、借用証文を破いて借金を破棄してしまった。管領畠山満家がこの一揆を鎮めた。亡国の下人としてこれ以上のものはない。日本が始まって以来、これが土一揆のはじめである。




← 前の投稿に戻る

  
  

次の投稿に進む →

  
  

>> 一覧に戻る <<

■原典

・薩戒記




■史料

 或る人いわく、播磨国の土民、旧冬の京辺の如く(1)蜂起し、国中の侍を悉く攻むるの間、諸庄園代官(2)、加之守護方軍兵、彼等のために或いは命を失い、或は追落さる。一国の騒動稀代の非法なりと云々。およそ土民の申すところは、侍をして国中にあらしむべからずと云々。乱世の至なり。よつて赤松入道(3)発向しおわんぬ者(てえり)。




■注釈

(1)正長の徳政一揆のこと。  (2)国内の荘園代官のこと。  (3)播磨国守護赤松満祐のこと。




■現代語訳(口語訳)

 ある人が言うには、「播磨国の土民が、昨冬に起きた正長の徳政一揆のように蜂起した。彼らは国中のすべての侍を攻めたので、荘園代官や守護の軍は命を失ったり、国から追われたりした。一国の騒動としては稀代の非法である」とのことだ。土民がいうには、「侍は国にあってはならない」とのことだ。まさに乱世の至りである。これを受けて播磨国守護の赤松満祐が蜂起の鎮圧に向かったという。




← 前の投稿に戻る

 
 

次の投稿に進む →

 
 

>> 一覧に戻る <<

■原典

・建内記(建聖院内府記)




■史料

 三日(1)丁酉(ひのととり)、…(中略)…近日四辺の土民蜂起す。土一揆と号し、御徳政と称して借物を破り、少分(2)を以て押して質物を請く。縡は江州より起こる。…(中略)…坂本・三井寺辺・鳥羽・竹田・伏見・嵯峨・仁和寺・賀茂辺物忩(3)(ぶっそう)にして常篇を絶す(4)。今日法性寺辺この事有りて火災に及ぶ。侍所多勢を以て防戦するもなお承引せず。土民数万の間防ぎえずと云々。賀茂の辺か、今夜の声を揚ぐ。

 …(中略)…今土民等代始(5)のこの沙汰先例と称す(6)と云々。




■注釈

(1)嘉吉元(1441)年の9月3日のこと。  (2)僅かな金銭の意。  (3)物騒の意。  (4)普通の状態ではないこと。  (5)同年6月に将軍義教が赤松満祐にされ、子の義勝が後を継いだ。  (6)正長の徳政一揆の際も、その年初に将軍義持が病死したことが発端となっていた。




■現代語訳(口語訳)

 嘉吉元(1441)年9月3日、…最近京都周辺の土民たちが蜂起した。彼らは土一揆だといい、徳政だといっては借金の証文を破り捨て、僅かな金額で無理やり質入れをした品物を取り返した。この動きは近江国から起こった。坂本・三井寺のあたり、鳥羽・竹田・伏見・嵯峨・仁和寺・賀茂のあたりは物騒で平常な状態ではない。今日は法性寺のあたりで騒ぎがあり、火災が起きた。侍所はたくさんの兵で防戦したが、一揆の輩はいうことを聞かず、土民は数万にも増えて防ぎ切れないという。賀茂の付近からか、今夜鬨の声をあげている。

 ….現在、土民たちは新将軍の代が代わったときに徳政を行うというのが、正長の時からの先例だと言っているそうだ。




← 前の投稿に戻る

 
 

次の投稿に進む →

 
 

>> 一覧に戻る <<

■原典

・看聞日記




■史料

 (嘉吉元年(1)六月)廿五日、晴れ。昨日の儀粗聞く。…(中略)…内方とどめく(2)。何事ぞと御尋ねあり。雷鳴かなど三条(3)申さるるの処、御後障子引あけて武士数輩出て則ち公方(4)討ち申す。

 …(中略)…管領(5)・細川讃州(6)・一色五郎(7)・赤松伊豆(8)等は逃走す。其外人々右往左往し逃散す。御前に於て腹切る人なし。赤松落行き追懸けて討つ人なし。未練いわんばかりなし。諸大名同心か、その意を得ざる事なり。

 所詮、赤松討ちたるべき御企て露見の間、遮りて討ち申すと云々。自業自得果たして力なき事か。将軍此の如き犬死、古来その例を聞かざることなり。




■注釈

(1)1441年のこと。  (2)邸内が騒々しいの意。  (3)三条実雅のこと。  (4)将軍足利義教のこと。  (5)細川持之のこと。  (6)細川成之のこと。(7)一色教親のこと。  (8)赤松貞村のこと。




■現代語訳(口語訳)

(嘉吉元年6月)25日、晴れ。昨日の事件のあらましを聞いた

…(赤松満祐邸の)奥が騒がしかったので(義教から)「何事であるのか」とお尋ねがあった。「雷鳴でしょうかと」などと三条実雅が申し上げていたところ、義教の背後の障子を引き開けて武士数人が飛び出し、将軍を討ち取った。…管領細川持之や細川成之・一色教親・赤松貞村等は逃げ出した。その他の人々も右往左往するばかりで逃げて散り散りになった。義教の遺体の前で切腹する者はいなかった。赤松満祐が(領地の播磨へ)落ちのびる際にも追いかけて討とうとする者もなかった。頼りがいのなさは言いようもない。諸大名たちは将軍殺害に同意していたのだろうか、その真意をはかりかねる事件である。

 結局は義教が赤松満祐を討とうとする計画が露見したので、その先手をうって将軍を暗殺したということだ。自業自得であり仕方がないことであろう。将軍がこのように犬死するとは、これまでにそのような例を聞いたことがない。




← 前の投稿に戻る

 
 

次の投稿に進む →

 
 

>> 一覧に戻る <<

■原典

・応仁記




■史料

 応仁丁亥ノ歳(1)、天下大ニ動乱シ、ソレヨリ永ク五畿七道悉ク乱ル。其の起ヲ尋ルニ、尊氏将軍ノ七代目ノ将軍義政公ノ天下ノ成敗(2)ヲ有道(3)ノ管領ニ任セズ、只御台所(4)、或ハ香樹院(5)、或ハ春日局ナド云、理非ヲモ弁ヘズ、公事(6)政道ヲモ知リ給ハザル青女房(7)・比丘尼達、計ヒトシテ酒宴淫楽ノ紛レニ申沙汰セラレ、…

 嗚呼鹿苑院(8)殿御代ニ倉役(9)四季ニカカリ、普広院殿(10)ノ御代ニ成、一年ニ十二度カカリケル。当御代(11)臨時ノ倉役トテ、大嘗会ノ有リシ十一月ハ九ケ度、十二月ハ八ケ度也。又彼借銭ヲ破ラントテ、前代未聞徳政ト云フ事ヲ此御代ニ、十三ケ度迄行レケレバ、倉方モ地下方(12)ヘ皆絶ハテケリ。…

 不計万歳期セシ花ノ都(13)、今何ンゾ狐狼ノ伏土トナラントハ、適残ル東寺・北野(14)サヘ灰土ナルヲ。古ヘニモ治乱興亡ノナラヒアリトイヘドモ、応仁ノ一変ハ仏法王法法(15)トモニ破滅シ、諸宗悉ク絶ハテヌルヲ、不堪感歎、飯尾彦六左衛門尉、一首ノ歌ヲ詠ジケル
 汝ヤシル都ハ野辺ノ夕雲雀アガルヲ見テモ落ルナミダハ」




■注釈

(1)1467年。  (2)政治の意。  (3)有能の意。  (4)義政の妻である日野富子のこと。  (5)将軍の女房のこと。  (6)裁判の意。  (7)若くて未熟な女房のこと。  

(8)足利義満のこと。  (9)土倉にかかる税金のこと。  (10)足利義教のこと。  (11)足利義政のこと。  (12)京都と地方の土倉を指す。  

(13)京都のこと。  (14)北野神社のこと。  (15)「仏の教えも国の法も」の意。




■現代語訳(口語訳)

 応仁元(1467)年、世の中は大いに乱れ、それ以後長年にわたって全国全てが戦乱状態となった。その現人は、尊氏将軍から七代目の将軍義政公が、政治を有能な管領に任せず、奥方や香樹院、春日局などの道理もわからず裁判や政治も知らないような若い未熟な女房・海人たちの処理として、主演やたわむれの席でいい加減に片付けたことによる。…


 義満の時代には土倉役が年に4回、義教の時代には年に12回かかっていた。現在の義政の時代には臨時として大嘗会のあった11月に9回、12月に8回であった。また土倉からの借金を破棄するために、今まで聞いたことのない徳政令というものをこの時代に13回出したので、京都や地方の土倉は没落してしまった。…


 思いもよらぬ結果になった。永久に栄えると思われた花の都京都は、今や狐や狼のすみかとなってしまい、たまたま焼け残った東寺や北野神社さえも灰や土のかたまりのようになった。昔から治乱興亡は世の習いとはいうが、この応仁の乱によって仏教の教えも国の法も共に破滅し、諸宗も全て絶え果ててしまった。この歎きをおさえられずに、飯尾六左衛門尉が一首、歌を読んだ。

 あなたはご存知でしょうか。都が焼け野原となって、夕暮にはひばりが空に飛び立って鳴く有様です。これを見るにつけても落ちる涙を止めることができません。

 




 ← 前の投稿に戻る

 
 

次の投稿に進む →

 

 

>> 一覧に戻る <<

 

■原典

・樵談治要




■史料

一、足がるといふ者長く停止せらるべき事。

 昔より天下の乱るることは侍れど、足軽といふことは、旧記などにもしるさざる名目(1)也。…(中略)…平家のかぶろといふ事をこそめづらしきためしに申侍れ。此たび(2)はじめて出来たる足がるは、超過したる悪党なり。其の故は洛中洛外の諸社・諸寺・五山十刹(3)・公家・門跡(4)の滅亡はかれらが所行也。かたきのたて籠たらん所にをきては力なし(5)。さもなき所所を打やぶり、或は火をかけて財宝をみさくる事は、ひとへにひる強盗といふべし。かかるためしは先代未聞のこと也。…されば隨分の人の、足軽の一矢に命をおとして、当座の恥辱のみならず、末代までの瑕瑾を残せるたぐひも有とぞ聞えし。




■注釈

(1)名前、名辞のこと。  (2)応仁の乱のこと。  (3)室町時代の臨済宗における寺院格式精度のこと。  (4)皇族や公家が住持する格式の高い寺院のこと。  (5)「仕方がない」「やむをえない」という意味。




■現代語訳(口語訳)

 足軽という者、長く停止されるべきであること。

 昔から世の中が乱れたことはあるが、足軽という者は古い記録などにも記されていない呼称である。応仁の乱ではじめて出現した足軽は度の過ぎた悪党である。その理由は、都の内外の神社や寺院、五山十刹の禅宗寺院、公家や門跡寺院が亡んだのは彼らの仕業だからである。敵が敵陣として立て籠もっているいるところところについては、攻撃を仕掛けても仕方がない。そうではない所々を打ち破り、あるいは火をつけて財宝を略奪することは単なる昼強盗というべきである。このようなことは前代未聞のことだ。




 ← 前の投稿に戻る

  

 

次の投稿に進む →

  

 

>> 一覧に戻る <<

 

■原典

・大乗院寺社雑事記




■史料

(文明十七年(1)十二月十一日)…

 一、今日山城の国人(2)集会す。上ハ六十歳、下ハ十五六歳と云云。同じく一国中の土民等群集す。今度両陣(3)の時宜(4)を申し定めんが為の故と云云。然るべきか。但し又下極上(5)の至なり。両陣の返事問答の様如何、未だ聞かず。


(文明十八年二月十三日)…

 一、今日山城国人、平等院に於て会合す。国中の掟法(6)、猶以て之を定むべしと云云。凡そ神妙なり。但し興成(7)せしめば天下の為然るべからざる事か。




■注釈

(1)1485年のこと。  (2)国の衆、地頭や在地の領主をさす。  (3)畠山政長と義就の両畠山軍をさす。  (4)事態への対応策の意。  (5)下剋上のこと。  (6)国中を支配する掟のこと。  (7)勢いが盛んになること。




■現代語訳(口語訳)

 文明17(1486)年、12月11日、…(中略)…今日山城の国人らが集会した。上は60歳の老人から下は15、6歳の若者まで集まったという。同様に国中の土民たちも集まった。それは今度の両畠山氏の戦闘への対応策を考え、処置を決めるためのものだったという。もっともなことであろう。しかし、これはまた下剋上の極みである。…


 文明18(1486)年1月13日…(中略)…今日山城の国人が宇治平等院で会合した。山城の国内の掟を改めて定めるためであるという。殊勝なことだ。しかし、あまり勢いが強くなりすぎると、天下のためにはよくないことと思う。




← 前の投稿に戻る

 
 

次の投稿に進む →

 
 

>> 一覧に戻る <<


■原典

・蔭凉軒日録

・実悟記拾遺




■史料

①蔭凉軒日録

(長享二年六月二十五日)…今月五日、越前府中に行く。其れ以前、越前合力(1)勢賀州(2)に赴く。然りと雖も、一揆衆二十万人、富樫城(3)を取り回く。故を以て、同九日、城を攻め落さる。皆生害(4)す。而るに富樫一家の者一人(5)之を取り立つ。

 
 

②実悟記拾遺

 泰高ヲ守護トシテヨリ、百姓トリ立テ富樫ニテ候アヒダ、百姓ノウチツヨク成テ、近年ハ百姓ノ持タル国ノヤウニナリ行キ候コトニテ候。




■注釈

(1)越前守護朝倉氏の軍勢のことで、一向一揆の討伐に出発した。  (2)賀州のこと、現在の石川県。  (3)守護富樫政親の拠点高尾城のこと。  (4)自害するの意。  (5)名目上は富樫泰高が守護となった。




■現代語訳(口語訳)

蔭凉軒日録

 (長享二年六月)廿五…(中略)…「今月五日。越前国の府中に向かった。それ以前に守護朝倉氏の援軍が加賀国へ出発した。しかし、一向一揆の軍勢二十万人が富樫の高尾城を取り巻いていた。こういうわけで、六月九日に城は攻め落とされ、みな自害した。そして富樫一族の者の一人、富樫泰高が加賀国守護に取り立てられた。

 

②実悟記拾遺

 泰高を守護としてからは、百姓たちが取り立てた富樫であったから百姓の力が強くなって、近頃は加賀国は百姓が支配している国のようになってしまったということだ。

 




← 前の投稿に戻る

 
 

次の投稿に進む →

 
 

>> 一覧に戻る <<

■原典

・朝倉敏景十七箇条(朝倉孝景条々)

・塵芥集




■史料

① 朝倉孝景条々( 朝倉敏景十七箇条 )

 一、朝倉館の外、国の中に城郭を構させ間敷候。惣別分限あらん者一乗谷(1)へ越され、其郷其村には、代官百姓等計置かるべく候事。


② 塵芥集

 ひやくしやう、ちとう(2)のねんくしよたう相つとめす、たりやうへまかりさる事、ぬす人のさいくハたるへし、…

 (百姓、地頭の年貢所当つとめず、他領へ罷り去る事、盗人の罪科たるべし。)




■注釈

(1)朝倉氏の城下町のこと。現在の福井市の郊外に位置する。  (2)地頭のこと。主君より土地を与えられているものを指す。




■現代語訳(口語訳)

① 朝倉孝景条々( 朝倉敏景十七箇条 )

 朝倉家の居城以外に、国内での築城は禁止する。所領のある者はすべて一乗谷に移り、所領には代官を置くこと。

 

② 塵芥集

 百姓が地頭に年貢を納入せず、他領へと逃亡した場合には盗人と同罪に処分する。




← 前の投稿に戻る

  

 

次の投稿に進む →

  

 

>> 一覧に戻る <<

■原典

・甲州法度之次第(信玄家法)

・今川仮名目録




■史料

①甲州法度之次第(信玄家法)

 一、国中の地頭人等子細を申さず、恣に罪科の跡と称し、私に没収せしむるの条、甚だ以て自由の至    り也。若し犯科人等晴信の被官たらば、地頭の綺有るべからず。…

 一、私領の名田の外、恩地領、左右無く沽却せしむる事、之を停止し訖ぬ。…

 一、喧嘩の事是非に及ばず、成敗を加ふべし(1)。但し取り懸ると雖も、堪忍せしむるの輩に於ては、罪科に処すべからず。

 

 

②今川仮名目録

 一、駿遠両国(2)の輩、或わたくしとして他国よりよめを取、或ハむこに取、むすめをつかハす事、自今以後之を停止し畢ぬ。

 一、不入の地の事。…旧規より守護使不入と云ふ事ハ、将軍家天下一同の御下知を以て、諸国の守護職仰せ付けらるる時の事也。守護使不入とありとて、御下知に背くべけん哉。只今ハをしなべて自分の力量を以て、国の法度を申し付け、静謐する事なれば、しゆこ(*しゆご)の手入る間敷事、かつてあるべからず。…




■注釈

(1)喧嘩両成敗法。家臣間の紛争は大名の裁定に任せることが目的とされる。  (2)駿河・遠江両国を指す。いずれも今川氏の両国である。




■現代語訳(口語訳)

①甲州法度之次第(信玄家法)

…(中略)…

一、喧嘩はその事情によらず全て処罰する。ただし、喧嘩をしかけられて、我慢かけられて、我慢した者は処分の対象とはならない。

 

②今川仮名目録

一、駿河・遠江両国の家臣は勝手に他国から嫁や婿を取ったり、娘を他国に嫁がせてはならない。

(以下、略)…




← 前の投稿に戻る

  

  

次の投稿に進む →

  

  

>> 一覧に戻る <<

■原典

・蓮如上人御文章




■史料

 夫、人間の浮生(1)なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終まぼろしのごとくなる一期(2)なり。さればいまだ万歳の人身をうけたりといふ事をきかず、一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。我やさき人やさき、けふともしらずあすともしらず、をくれさきだつ人はもとのしづく(3)、すゑの露よりもしげしといへり。されば朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。…

 されば人間のはかなき事は老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて念仏まうすべきものなり。あなかしこあなかしこ。




■注釈

(1)「儚(はかな)い人生」の意。  (2)「一生」の意。  (3)「先と後の差はあっても、最後には消えてゆく」の意。




■現代語訳(口語訳)

 人間の儚い一生を観察するに、この世の全てが幻のような一生である。まだ1万年生きたという人を聞いたことがない。一生はすぐに過ぎてしまう。今の時代では誰も100歳まで生きることはできない。自分が先に死ぬか、他人が先か。今日とも明日ともわからない。この世に残る者と先立つ者の様子は「もとのしずく、末の露」の例えよりもせわしい。私たちは朝には若々しい顔でも、夕方には白骨となる身である。

…(以下、略)




 

← 前の投稿に戻る

  

 

次の投稿に進む →

  

 

>> 一覧に戻る <<

■原典

・離宮八幡宮文書

・蜷川家文書




■史料

① 座(離宮八幡宮文書)

 石清水八幡宮大山崎神人等、公事并に土倉役の事、免除せらるる所也。将又摂州道祖小路・天王寺・木村・住吉・遠里小野、并に江州小秋の散在土民等、恣に荏胡麻を売買せしむと云云。向後は彼の油器を破却すべきの由、仰せ下さるる所也。仍て下知件の如し。

   応永四年五月廿六日     沙弥(花押)

 

 

② 撰銭令(蜷川家文書)

定む  撰銭の事、京銭・打平等を限る。

 右唐銭に於ては、善悪を謂はず、少瑕を求めず、悉く以て諸人相互ひに取り用ひるべし。次に悪銭売買の事、同じく停止の上は彼と云ひ是と云ひ、若し違犯の輩有らば、其の身を死罪に行ひ、私宅に至りては結封せらるべきの由、仰せ下さるる所也。仍て下知件の如し。

 永正二年十月十日




■注釈




■現代語訳




← 前の投稿に戻る

  

 

次の投稿に進む →

  

 

>> 一覧に戻る <<

このコンテンツを閲覧するにはログインが必要です。お願い Log In. あなたは会員ですか ? 会員について

■原典

・ガスパル=ヴィレラ書簡『耶蘇会士日本通信』




■史料

・自由都市「堺」

一五六一(永禄四)年書簡

 堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり。此町はベニス市(1)の如く執政官(2)に依りて治めらる。

 

一五六二(永禄五)年書簡

 日本全国当堺の町より安全なる所なく、他の諸国に於て動乱あるも、此町には嘗て無く、敗者も勝者も、此町に来住すれば皆平和に生活し、諸人相和し、他人に害を加ふる者なし。市街に於ては嘗て紛擾起ることなく、敵味方の差別なく皆大なる愛情と礼儀を以て応対せり。市街には悉く門(木戸)ありて番人を附し、紛擾あれば直に之を閉づることも一の理由なるべし。紛擾を起す時は犯人其の他悉く捕へて処罰す。…町は甚だ堅固にして、西方は海を以て、又他の側は深き堀を以て囲まれ、常に水充満せり。…




■注釈

(1)イタリアの商業都市、ヴェネチアのこと。  (2)36人の会合衆のこと。  




■現代語訳

一五六一(永禄四)年書簡

 …ここ堺の市は非常に大きく、有力な商人らを多数擁し、ベニス市(ヴェネチア)と同様、36人の会合衆が自治で治める共和国のような所である。…

 

一五六二(永禄五)年書簡

日本において堺よりも安全なところはなく、他の国々どれほど騒乱があっても、此の町には皆無であ李、勝者も敗者もこの町に来れば皆平和に暮らし、人々は仲良くして、他人に害を与えるようなことはしない。街路では騒ぎが起こることもなく、むしろ諸人は街路で互いに大いに親愛の情と礼節をもって話すので、敵・味方の区別がない。これは全ての街路に門と門番がいて、いかなる紛争に際しても門を閉じ、騒ぎを起こす者は犯人もそのほかの関係者も捕われて皆罰せられることによるのかもしれない。

 …(中略)…町の守りは非常に強固で、西は海、その他は深い堀で囲まれ、常に水が満ちている。…。





← 前の投稿に戻る

  

  

次の投稿に進む →

  

  

>> 一覧に戻る <<