■原典

・鉄炮記




■史料

 隅州の南に一嶋有り。州を去ること一十八里、名づけて種子と曰ふ。…(中略)….。

 天文癸卯(1)(秋八月二十五日丁酉)、我が西村小浦(2)に一大船有り。何国より来るか知らず。船客百余人、…(中略)…。

 

 手に一物を携ふ。長さ二、三尺。其の体たるや、中通り外は直にして、重きを以て質と為す。其の中常に通ると雖も、其の底は密塞を要す。其の傍に一穴有り。火を通ずるの路也。形象、物の比倫すべき無き也。…(中略)…。

 

 時堯(3)其の価の高くして及び難きを言はずして、蛮種の二鉄炮を求め、以て家珍と為す。




■注釈

(1)1543年のこと。  (2)種子島西村にある小さな入江のこと。  (3)島主である種子島時尭のこと。

 




■現代語訳

 大隈国の南に1つの島がある。大隈国から18里、名前は種子島という。

 

 …1543年、種子島に大船が到着した。どこの国の船かは定かではない。乗客は100余人ほどで、あるものを携えている。その長さは2〜3尺で、中は空洞、外見はまっすぐでずっしりと重い。中は空洞だが、底は閉じている。その一部に火を通す穴がある。火をつけるためのものであった。その形状は全く例えようのない物であった。

 

 時堯はその値段があまりにも高価で手が届きにくいにもかかわらず、その南蛮人が持っていた鉄砲を購入してその家宝とした。




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■原典

・漢書地理志

・後漢書東夷伝




■史料

① 紀元前1世紀ごろの倭国〔漢書地理志〕

 夫れ楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国と為る。歳時を以って来り。献見(1)すと云う。


② 紀元前1〜2世紀ごろの倭国〔後漢書東夷伝〕

建武中元二年、倭の奴国、貢ぎ奉じて朝賀す。使人自ら大夫(2)と称す。倭国の極南界なり。光武、賜ふに印綬(3)を以てす。安帝の永初元年、倭の国王帥升等、生口(4)百六十人を献じ、請見を願ふ。桓霊の間(5)、倭国大いに乱れ、更相攻伐して暦年主なし。




■注釈

(1)定期的にやってきて。(朝貢、謁見)  (2)中国王朝の官名。一般的には大臣。  (3)印とそれに付す組紐。  

(4)奴隷。  (5)後漢の桓帝(147-167)と霊帝(168-189)の間。

 

※①について

中国前漢(紀元前202〜後8年)の歴史書『漢書』の一部。1世紀、後漢の班固による編纂とされる。

※②について

中国後漢(25〜220年)の歴史書『後漢書』の一部。5世紀、南朝宋の范曄による編纂とされる。




■現代語訳(口語訳)

①楽浪郡の海の向こうには倭人がおり、100余国に分かれている。毎年定期的に楽浪郡に朝貢(貢物を持参)し、謁見するといわれている。


②57年、倭の奴国が後漢の洛陽に朝貢してきた。使者は自信を大夫と名乗った。倭の南端にあるという。洪武帝は奴国の王に金印と綬を授けた。107年、倭の国王である帥升たちが奴隷160人を献上し、皇帝に謁見を求めた。2世紀後半ごろ、倭国は大いに乱れ、互いに攻め合って長い間統一されなかった。


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■原典

・魏志倭人伝




■史料

①位置

 倭人は帯方(1)の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。旧百余国、漢の時朝見(2)する者あり。今使訳通ずる所(3)三十国。郡より倭に至るには海岸に循ひて水行し、…邪馬壹国に至る。女王の都する所なり…


②習俗

 男子は大小と無く、皆黥面文身(4)す。…男子は皆露紒(5)し、木緜を以って頭に招く。其の衣は横幅、但結束して相連ね、略縫うことなし。婦人は被髪屈紒す。衣を作ること単被の如く、其の中央を穿ち、頭を貫きて之を衣る。…


③社会

 租賦を収む。邸閣有り。国々市有り、有無を交易す。大倭(6)をして之を監せしむ。女王国より以北には、特に一大率(7)を置き、諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚す。…下戸、大人と道路に相逢へば、逡巡(8)して草に入り、辞を伝え事を説くには、或は蹲り或は跪き、両手は地に拠りて、之が恭敬を為す。


④政治

其の国、本亦男子を以て王と為し、住まること七・八十年。倭国乱れ、相攻伐すること暦年、乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰う。鬼道(9)を事え、能く衆を惑はす。…


⑤外交

 景初二年(10)六月,倭の女王、大夫難升米等を遣はし、郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。…其の年十二月、詔書して倭の女王に報じて日く、「…今汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し、…特に汝に…銅鏡百枚・真珠…を賜うなり」と。…


⑥卑弥呼の死後

 卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩(11)、徇葬(12)する者、奴卑百余人、更に男王を立てしも、国中服せず。更相誅殺し、当時千余人を殺す。復た卑弥呼の宗女壹与の年十三なるを立てて王と為す。国中遂に定まる。…




■注釈

(1)帯方郡。楽浪郡の南端に新設された郡。 (2)朝貢して謁見する。 (3)国交のあるところ

(4)全身にいれずみがある。 (5)両耳からみずらに結った髪 (6)官職名とされる。 (7)諸国の検察・監視機関。

(8)しりごみする。 (9)呪術(シャーマニズム) (10)景初三年の誤りで、正しくは西暦239年。

(11)直径100余歩。 (12)貴人の死に殉じて一緒に埋葬されること。




■現代語訳(口語訳)

①位置

倭人は帯方郡東南の海の向こうにいて、山の多い島に国を作っている。昔は100余国あり、漢の時代に朝貢して謁見してきた。今、30国が使者を送っている。帯方郡から倭に行くには、海岸に沿って航行し、 …邪馬台国がある。女王が都をおいている。


②習俗

男子は子どもも大人も皆、全身にいれずみをしている。髪はみずらに結い、木綿を頭に巻いている。衣服は一枚の布で、横幅の布を体に巻きつけるだけで縫うことはない。女性は頭の後ろで髪を束ねている。衣服は布の中央を貫き、貫頭衣にしている。


③社会

税を納める倉庫がある。国々では市がたち、交易が行われていて、大倭が監視している。邪馬台国から北には、諸国を検察する一大卒が置かれていて、諸国はこれを恐れている。下戸が道で大人に会えば、後ずさりして草むらに入り、声をかける場合にはひざまずいたりして両手をつき、恭敬の意を表す。


④政治

邪馬台国は7・80年の間は男の王が統治していた。しかし、倭国は大乱となり長年抗争が絶えなかったので、一人の女子を立てて王とし卑弥呼と呼んだ。卑弥呼は呪術に優れ、よく統治した。


⑤外交

239年、女王卑弥呼は大夫難升米たちを使者として帯方郡に行かせ、魏の皇帝に朝貢したいと求めた。12月、魏の皇帝は「卑弥呼を親魏倭王に任じ、金印と紫綬を与え、銅鏡…真珠などを与える」という詔書を出した。


⑥卑弥呼の死後

卑弥呼が死んで大きな墓がつくられた。墓の直径は100余歩もあり、100人ほどの奴婢が殉葬された。その後、男の王をたてたが、国中が服従しなかった。卑弥呼一族の女である壱与を王にたてると、国中がしずまった。




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■原典

・高句麗好太王碑文




■史料

 百残(1)・新羅は旧是れ属民なり(2)。由来朝貢す。而るに倭、辛卯の年よりこのかた海を渡りて、百残・□□・新羅を破り,以て臣民と為す。
 六年丙申(3)を以って、王躬ら水軍を率いて残国を討科す。…壱八の城を攻め取る。
 九年己亥、百残、誓いに違ひ、倭と和通す。王、平穰巡下す。而るに新羅、使いを遣はして、王に白ひて云く、「倭人、其の国境に満ち、城池を潰破し、奴客を以て民と為せり。王に帰して命を請はん」と。
 …十年庚子、歩騎五万を遣はして、往きて新羅を救はしむ。男居城従り新羅城に至る。倭、其の中に満てり。官兵方に至り、倭賊退く。
 …十四年甲辰、而るに倭、不軌にして帯方界に侵入す。…倭寇潰敗し、斬殺無数なり。




■注釈

(1)百済 。  (2)もともと高句麗の属民である。  (3)好太王の即位6(396)年




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■原典

・方丈記




■史料

 治承四年水無月の比、にはかに都遷り侍りき。いと思ひの外なりし事なり。おほかた、この京(1)のはじめを聞ける事は、嵯峨の天皇の御時、都と定まりにけるより後、すでに四百余歳(2)を経たり。ことなるゆゑ(3)なくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人安からず憂へあへる、実にことわりにも過ぎたり。

 されど、とかくいふかひなくて(4)、帝(5)より始め奉りて、大臣・公みな悉く移ろひ給ひぬ。…

 軒を争ひし人のすまひ、日を経つつ荒れゆく。家はこぼたれて(6)淀河に浮び(7)、地は目のまへに畠となる。人の心みな改まりて、ただ馬・鞍をのみ重くす。牛・車を用する人なし(8)。西南海の領所を願ひて、東北の庄園を好まず(9)




■注釈

(1)平安京のこと。  (2)平城太上天皇の変をもとに、「方丈記」の成立年を考慮すると400年ほど。

(3)「特別な根拠」の意。  (4)「言っても始まらないので」の意。  (5)安徳天皇を指す。

(6)「家が取り壊されて」の意。  (7)解体後に筏として組まれ、大阪湾まで運ばれた。

(8)当時の風俗が、公家風から武家風へと転換していたことを示す。  

(9)西海道と南海道はいずれも平氏の勢力下にあり、東海道・東山道・北陸道は源氏の勢力下にあったため、荘園の年貢徴収状況はあまり良くなかった。




■現代語訳(口語訳)

 治寿4(1180)年、6月ごろ急に遷都が行われた。全く思いがけないことであった。だいたいこの平安京のはじまりについて聞いていることは、嵯峨天皇の御代に都と定まったもので、その後今日まで、すでに400年以上も経過したのである。都というものは特別な理由もないのに簡単に変わるべきではないものでもないので、今度の遷都について人々がひととおりでなく心配しあったのも、誠に当然すぎることであった。

 しかし、あれこれいっても仕方がないので、天皇をはじめとして大臣・公卿の全てが新都へお移りになった。

 軒を並べて建っていた住宅は日に日に荒れていった。家は取り壊され、その材木は淀川に浮かび、宅地はみるみるうちに畑となってしまう。人の考え方も変化して、馬・鞍ばかりが大切にされている。牛や車を用いる人はいない。西海道・南海道方面の領地をもらうことを願って、東国・北陸方面の荘園を好まない。




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■原典

・宋書倭国伝




■史料

 高祖(1)の永初二年、詔して日く、「倭讃、万里貢を修む。遠誠宣しく甄すべく、除授を賜ふべし(2)」と。……讃死して弟珍立つ。

…二十年(3)、倭国王済、使を遣はして奉献す。

…済死す。世子興(4)、使を遣はして奉献す。

…興死して弟武立つ。自ら使持節都督府・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王と称す。

…順帝(5)の昇明二年,使を遣はして表を上りて日く、「封国は偏遠にして、藩(6)を外(7)に作す。昔より祖禰躬ら甲冑を擐き、山川を跋渉して、寧処に遑あらず。東は毛人(8)を征すること五十五国、西は衆夷(9)を服すること六十六国、渡りて海北(10)を平ぐること九十五国。…」と。




■注釈

(1)宋の初代武帝(在位420〜422年)。  (2)官職・爵位を授ける。  

(3)三代文帝の即位20年。  (4)後継ぎ  (5)八代皇帝(在位477〜479年)  

(6)領域  (7)遠いところ  (8)蝦夷か  (9)九州南部の人々か  (10)朝鮮半島のことか




■現代語訳(口語訳)

 高祖の永初2(421)年、詔を下していうには、「倭王の讃は万里を越えて貢物を献上してきた。遠方からの誠意を賞して官職を与える」と。…讃が死んで弟の珍が王位についた。

 …文帝の20(443)年、倭国王の済が使者を遣わして貢物を献上した。

 …済が死に、後継ぎの興が使者を遣わして貢物を献上した。

 …興が死んで弟の武が王位につき、自ら使持節都督府・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王と称した。

 順帝の昇明2(478)年、武は使者を遣わして文書を奉り、次のように述べた。「私の国は中国から遥か遠いところを領域としています。昔から私の祖先は、自ら甲冑を着け、山を越え川を渡って各地で戦い、休む暇もありませんでした。そして東は毛人の55国、西は衆夷の66国を征服し、さらに海を超えて北方の95国を平定しました。…」と。




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■原典

・江田船山古墳出土鉄刀銘




■史料

 天下治めす獲□□□鹵大王(1)の世、奉□典曹人、名は无□弖、八月中、大いなる鋳釜と、幷て四尺の廷刀(2)とを用ゐ、八十たび練り、六十たび捃じたる三寸上好の□刀なり。此の刀を服する者は長寿、子孫注々三恩を得る也。其の統ぶる所(3)を失はざらむ。刀を作れる者の名は伊太□、書せる者は張安也。




■注釈

(1)雄略天皇とされる。  (2)延べ金で作った刀。  (3)支配する。




■現代語訳(口語訳)

 天下を治める雄略天皇の時代、・・・(中略)・・・8月中、大きな鋳釜と廷刀を用いて八十回錬り、六十回精錬を重ねた三才に通じる名刀である。この刀を持つものは長生きができ、子孫も洋々として恩恵を受けることができる。そして治める国も失うことはない。この方の刀の作成者はイタワ(伊太(和))、記録したものは張安である。




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■原典

・稲荷山古墳出土鉄剣銘




■史料

① 表

 辛亥年七月中記す。乎獲居臣、上祖の名は意富比垝、其の児多加利足尼、其児名は弖已加利獲居、其の児名は多加披次獲居、其の児名は多沙鬼獲居、其の児名は半弖比、


② 裏

 其の児名は加差披余、其の児名は乎獲居臣、世々杖刀人の首(1)と為り、奉事し来り今に至る。獲加多支鹵大王の寺(2)、斯鬼宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事せる根原を記す也。




■注釈

(1)大王の親衛隊の隊長  (2)朝廷




■現代語訳(口語訳)

 その子の名はカサヒヨ、その子の名はヲワケの臣。私の一族は、代々、大王の親衛隊長となり大王に仕えて今に至る。雄略天皇の朝廷が、シキの官にある時、私は大王の統治を補佐した。この100回鍛えた名刀をつくらせて、私が大王に仕えてきた由来を記しておく。




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■原典

・上宮聖徳法王帝説

・日本書紀




■史料

①上宮聖徳法王帝説

 志癸嶋天皇(1)の御世に、戊午の年の十月十二日に、百済国の主明王(2)、始めて仏の像経教并せて僧等を渡し奉る。勅して蘇我稲目宿禰の大臣に授けて興し隆えしむ。

 継体天皇即位十六年壬寅、大唐の漢人案部村主司馬達止(3)、此の年の春二月に入朝す。即ち草堂を大和国高市郡坂田原に結び、本尊を安置し、帰依礼拝す。世を挙げて皆云ふ、「是れ大唐の神なり」と。



②日本書紀

 (欽明天皇十三年)冬十月、百済の聖明王、…(中略)…釈迦仏に金銅像一躯、幡蓋若干,経論若干巻を献る。…群臣に歴問して日く、「西蕃の献れる仏の相貌端厳し。全ら未だ曽て有らず。礼ふべきや不や」と。蘇我大臣稲目宿禰(4)奏して日さく、「西蕃の諸国、一に皆礼ふ…」と。

 物部大連尾輿(5)・中臣連鎌子(6)、同じく奏して日さく、「我が国家の、天下に王とましますは、恒に天地社稷の百八十神を以て、春夏秋冬、祭拝りたまふことを事とす。方に今改めて蕃神を拝みたまはば、恐らくは国神の怒りを致したまはむ」と。天皇日く、「宜しく情願ふ人,稲目宿禰に付けて、試に礼ひ拝ましむべし」と。




■注釈

(1)欽明天皇  (2)百済の聖明王  (3)鞍作鳥(止利仏師)の祖父

(4)蘇我馬子の父  (5)物部守屋の父  (6)詳細不詳、鎌足とは異なる人物とされる




■現代語訳(口語訳)

①上宮聖徳法王帝説

 欽明天皇の治世である538年10月12日、百済の聖明王がはじめて仏像・経典と僧を送ってきた。天皇は勅を発して蘇我稲目に与え、仏教を盛んにさせた。〜以下、略〜

②日本書紀

 欽明天皇十三年(552年)冬十月に百済の聖明王が…釈迦仏の金銅像一体、幡と蓋若干、経論若干巻を献上してきた。…、天皇は群臣ひとりひとりに「西蕃が献上した仏の相貌は美しく厳かなもので、今までに全くなかったものである。礼拝すべきか否か」と尋ねた。蘇我大臣稲目はこう奏上した。「西蕃の諸国は皆礼拝しております。日本だけが背くべきではありません。」

 物部大連尾興と中臣連鎌子はこう奏上した。「わが国では天下の王として臨まれる方は、常に天地の多くの神々を春夏秋冬お祀りになることをつとめとしています。今それをあらためて蕃神を礼拝されるならば、恐らくは国神の怒りを招かれましょう。」天皇は「礼拝したいと願っている稲目にさずけ、試みに礼拝させてみよう」といわれた。




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■原典

・日本書紀




■史料

 (推古天皇十二年)夏四月丙寅朔戊辰、皇太子親ら肇めて憲法十七条を作りたまふ。

一に曰く、和を以て貴と為し、忤ふること無きを宗と為す。人皆党有りて、亦達れる者少し。…

二に曰く、篤く三宝(1)を敬ひ、三宝は仏法僧なり。則ち四生の終帰万の国の極宗なり。何の世、何の人か、是の法を(ば)貴ばざる。…

三に曰く、詔を承りては必ず謹め。君をば則ち天とす。臣をば則ち地とす。…

四に曰く、群卿百寮、礼を以て本とせよ。…

八に曰く、群卿百寮(2)、早く朝り晏く退でよ。…

十二に曰く、国司(3)、国造、百姓に斂ること勿れ。国に二の君なし。民に両の主なし。…

十七に曰く、夫れ事をば、独り断むべからず。必ず衆ともに宜く論ふべし。…




■注釈

(1)仏教のこと。  (2)国政審議に参加する上級豪族のこと。  

(3)「国司」の名称は当時未成立のため、国単位での行政支配を担う官吏の存在は不確定。




■現代語訳(口語訳)

 推古天皇12(604)年、夏4月3日に皇太子は自らはじめて憲法十七条をつくった。

 一に和を貴び、反抗したりすることのないことを基本と心得よ。

 二にあつく三宝を敬え。三宝とは仏と仏の教えと僧侶である。仏教はあらゆる生物が最後に帰するところ、万国の究極の拠り所である。どんな世のどんな人がこの教えを貴ばないでいられようか。

 三に天皇の詔を受けたならば必ず従え。君とは天、臣とは地のようなものだ。

 四に国政をとる者も一般の役人も礼を基本にせよ。

 八に官吏は朝早く出勤し、遅く退出せよ。

 十二に国司や国造は人民から税を搾り取らないようにせよ。国に二人の君主はなく、民に二人の主人はいない。

 十七に物事を独断で行ってはならない。必ず皆と意見を交換するようにせよ。




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■原典

・隋書倭国伝

・日本書紀




■史料

①「隋書」倭国伝

 大業三年(1)、其の王多利思比孤、使を遣わして朝貢す。使者曰く、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来りて仏法を学ぶ」と。其の国書に曰く、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや、云云」と。帝(2)、之を覧て悦ばず、鴻臚卿(3)に謂って曰く、「蛮夷の書、無礼なる者有らば、復た以て聞する勿れ」と。明年、上(4)、文林郎(5)裴清を遣わして倭国に使せしむ。




②「日本書紀」

 (推古天皇十五年)…。大礼(6)小野臣妹子を大唐(7)に遣わす。鞍作福利を以て通事(8)とす。…十六年夏四月小野臣妹子、大唐より至る。…則ち復た小野妹子臣を以て大使とす。吉士雄成を小使として、…爰に天皇(9)、唐の帝(10)を聘ふ。其の辞に曰く、「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す。…」と。是の時に、唐の国に遣わす学生は、倭漢直福因、奈羅訳語恵明、高向漢人玄理、新漢人大圀、学問僧新漢人日文、南淵漢人請安、志賀漢人恵隠、新漢人広済等併せて八人なり。




■注釈

(1)607年。  (2)煬帝。  (3)外国使節の接待を掌る官庁長官。  (4)煬帝。 

(5)秘書省文林郎(従八位)。  (6)冠位十二階5番目の官位。  (7)隋。  (8)通訳

(9)推古朝での天皇成立説の根拠の1つ。  (10)煬帝




■現代語訳(口語訳)

①607年、倭王が使者を派遣して朝貢してきた。使者は「海の西の隋の天子が仏法を大変盛んにされたと聞いています。そのため私が派遣され、天子にご挨拶をして僧侶数十人が仏法を学ことになりました。」と言った。その国書には「日の昇る東の国の天子が、日の沈む西の国の天子に国書を送ります。お変わりはありませんか」とあった。煬帝はこれを見て喜ばず、「倭の国書は無礼である。二度と上奏するな」と鴻臚卿に言った。翌608年、煬帝は文林郎の裴世清を倭国に派遣した。


②607年。大礼の小野妹子を隋に派遣した。鞍作福利を通訳とした。…再び小野妹子を使者とした。吉土雄成を副使として隋へと派遣し、天皇は隋の皇帝へ書状を送った。書状には「東の天皇が、西の皇帝に謹んで申し上げる」とあった。この時、隋に派遣した学生は倭漢直福因、奈羅訳語恵明、高向漢人玄理、新漢人大圀、学問僧新漢人日文、南淵漢人請安、志賀漢人恵隠、新漢人広済等幷て八人である。




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■原典

・日本書紀




■史料

①国史の編纂〔日本書紀〕

 是の歳、皇太子、嶋大臣、共に議りて天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部のを幷て公民等の本記を録す。


②仏教の興隆〔日本書紀〕

 (推古天皇三十二年)秋九月甲戌朔丙子、寺及び僧尼を校へて、具に其の寺の造れる縁(1)、亦僧尼の入道ふ縁、及び度せる年月日を録す。是の時に当りて、寺四十六所(2)、僧八百十六人、尼五百六十九人、幷て一千三百八十五人有り。




■注釈

(1)寺の縁起  (2)文献・遺跡から確認される寺院のうち、天智天皇以前のものは55寺とされている。





■現代語訳(口語訳)

①省略


②省略




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■原典

・日本書紀(大化元年九月の詔)




■史料

 甲申、使者を諸国に遣して民の元数(1)を録す。仍て詔して曰く、「古より以降、天皇の時毎に、代の民(2)を置き標して、名を後に垂る(3)。其れ臣連等・伴造・国造、各己が民(4)を置きて、情の恣に駈使ふ。又、国県の山海・林野・池田を割りて、己が財として、争ひ戦ふこと已まず。或は数万頃(5)の田を兼ね幷す。或は全ら容針少地も無し。…方に今、百姓(6)猶乏し。而して勢有る者は水陸(7)を分け割いて私の地としながら、百姓に売り与へて、年に其の価を索ふ(8)。今より以後、地売ること得じ。妄に主と作りて、劣く弱きを兼ね幷すこと勿れ」と。百姓、大いに悦ぶ。




■注釈

(1)全体の数、人口。  (2)大王直属の名代の民。  (3)名代を設け、天皇の名を後世に伝えた。

(4)豪族の私有民(部曲)。  (5)令以前の単位。令制の五歩に相当。  (6)民衆のこと。  

(7)田畑のこと。  (8)「土地を貸与して地代をとる」こと。




■現代語訳(口語訳)

省略




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■原典

・日本書紀




■史料

〔公地公民制〕

 (大化)二年春正月甲子朔、賀正礼畢りて、即ち改新の詔を宣ひて曰く、

 其の一に曰く、昔在の天皇等の立てたまへる子代の民(1)・処処の屯倉、及び別には、臣・連・伴造・国造・村首(2)の所有る部曲の民(3)・処処の田荘(4)を罷めよ。仍りて食封(5)を大夫(6)より以上に賜ふこと、各差有らむ(7)。降りて布帛を以て官人・百姓に賜ふこと差有らむ。


〔地方行政制度、軍事・交通制度〕

 其の二に曰く、初めて京師を修め、畿内・国司(8)・郡司(9)・関塞(10)・斥候(11)・防人(12)・駅馬・伝馬(13)を置き、及び鈴契(14)を造り、山河を定めよ(15)


〔班田制〕

 其の三に曰く、初めて戸籍・計帳(16)・班田収授法を造れ。凡て五十戸を里とし、里毎に長一人を置く。…凡そ田は、長さ卅歩、広さ十二歩を段と為し、十段を町と為よ。段ごとに租稲二束二把、町ごとに租稲廿二束とせよ。


〔税制〕

 其の四に曰く、旧の賦役(17)を罷めて、田の調(18)を行へ。…別に戸別の調(19)を収れ。…凡そ采女(20)は、郡の少領(21)より以上の姉妹、及び子女の形容端正し者を貢れ。一百戸を以て、采女一人が粮に充てよ。




■注釈

(1)大王家の直属民のこと。 (2)村の首長のこと。 (3)豪族の私有民のこと。 

(4)豪族の私有地のこと。 (5)国家が指定した特定の戸からの租税を、封主に与える制度

(6)国政審議に参与する者のこと。 (7)各々の地位に応じて給付する。 (8)畿内国の司と読む説あり。

(9)郡は大宝律令下での表記。大宝令に従って文字を改められたと考えられる。

(10)軍事上の防御施設のこと。 (11)北方の守備兵と考えられる。 (12)西海の守備兵のこと。

(13)伝馬は各郡家に置かれ、公的な伝達・輸送に用いられた。 (14)駅鈴のこと。

(15)地方の境界を定めること。 (16)庸・調を賦課するための台帳のこと。 

(17)従来の租税や力役のこと。

(18)一定基準で田地に賦課する税のこと。 (19)戸を単位として賦課する税のこと。

(20)後宮に仕える女官のこと。 (21)令制では郡司は大領・少領・主政・主帳の四等官からなる。




■現代語訳(口語訳)

(大化)2(646)年正月1日、新年の儀式が終わってから、天皇が改新の詔を宣布された。

 第1条にいう。昔の天皇たちが設置した子代や各地の屯倉、及び臣・連・伴造・国造・村首ら諸豪族が支配する部曲や各地の田荘を廃止せよ。これに伴い、大夫以上には食封を、それ以下の役人や庶民には布帛を、それぞれの地位に応じて禄として与えることとする。


 第2条にいう。初めて都をつくり、畿内・国司・郡司・及び関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬を設置し、駅鈴や木契をつくり、国や郡の境となる山河を定めよ。


 第3条にいう。初めて戸籍・計帳・班田収授の法をつくれ。50戸を1里とし、里ごとに里長を置く。田は長さ30歩、広さ12歩を1段とし、10段を1町とせよ。段ごとに稲二束二把、 其の三に曰く、初めて戸籍・計帳(16)・班田収授法を造れ。凡て五十戸を里とし、里毎に長一人を置く。…凡そ田は、長さ卅歩、広さ十二歩を段と為し、十段を町と為よ。段ごとに租稲二束二把、町ごとに租稲二十二束とせよ。


 第4条にいう。旧来の税制を廃止して、一定基準による田地への税制を施行せよ。…それとは別に戸を単位とした税を徴収せよ。…采女は郡の少領以上の者の姉妹や子女で容姿端正になるものを貢上せよ。100戸から納入されるものを、采女1人の食料にあてよ。…




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■原典

・養老令




■史料

①戸籍〔戸令〕

 凡そ戸は五十戸を以て里と為よ。里毎に長一人を置け。…

 凡そ戸籍(1)は六年に一たび造れ。十一月の上旬より起りて、式に依て勘へ造れ。里別に巻を為せ。…

 凡そ戸籍は恒に五比(2)を留めよ。其れ遠き年の者は次に依て除け。近江の大津の宮の庚午の年の籍は、除かず。…



②土地制度〔田令〕

凡そ田は、長さ卅歩、広さ十二歩を段(3)と為よ。十段を町と為よ。段の租稲二束二把。町の租稲廿二束。

 凡そ口分田を給はむことは、男に二段。女は三分が一を減ぜよ(4)。五年以下(5)には給はざれ。其の地に寛に狭きことあらば、郷土の法に従れ。易田は倍して給へ。…

 凡そ田を賃租せむことは、各一年を限れ。…

 凡そ田は、六年に一たび班へ。神田・寺田は、此の限に在らず。若し、身死にたるを以て田を退くべくは、班はむ年に至らむ毎に、即ち収り授ふに従れ。…

 凡そ官戸、奴婢の口分田は、良人と同じ。家人、奴婢には、郷の寛に狭きことに随ひて並に三分が一を給へ。



③税制〔賦役令〕

 凡そ調の絹・絁・糸・綿・布は、並に郷土の所出に随へよ。…次丁二人、中男四人は、並に正丁一人に准ぜよ。…

 凡そ正丁の歳役(6)は十日。若し庸を収るべくは、布二丈六尺。…次丁は二人は一正丁に同じ。中男、及び京、畿内は庸を収るの例に在らず。…

 凡そ令条の外の雑徭は、人毎に均く使へ。総て六十日に過ぐることを得ざれ。

 凡そ調庸の物は年毎に八月の中旬より起りて輸せ。…其の運脚は均しく庸調の家に出さしめよ。…




■注釈

(1)班田収授と租の課税台帳のこと。(2)6年の5倍である30年の意。

(3)長さ30歩、広さ12歩。360歩で1段となる。

(4)男の3分の2、1段120歩が班支される。

(5)5歳以下は支給されず、6歳以上が支給対象となる。

(6)年10日間状況し労役に従事すること。




■現代語訳(口語訳)

①戸籍〔戸令〕

 戸は50戸で一里とし、里ごとに里長をおくこと。戸籍は6年に一度作成する。…(中略)…。戸籍は30年間保存し、近江大津宮の庚午年籍は永久保存とする。


②土地制度〔田令〕

 田は長さ30歩、広さ12歩を1段とする。10段を1町とする。1段の租稲は二束二把、1町の租稲は22束。

 口分田の支給は男子には2段、女子にはその3分の1を減らして支給すること。5歳以下の者には与えない。…(中略)…。班田は6年に1回行う。6年ごとの班田の年に収授する。…(以下、略)。


③ 税制〔賦役令〕

 庸の絹・絁・糸・綿・布は、いずれも土地の特産物で納めること。次丁は2人、中男4人で、正丁1人分とすること。…

 正丁の歳役は10日とする。代わりに庸を納める場合は布2丈6尺を納めること。…次丁2人で正丁1人と同じとする。中男、及び京、畿内の者は庸の納入はなしとする。

 雑遙は特定の人物に偏らないで均等に課すこと。それは年間で60日を超えないこと。

 調庸の納入は8月の中旬より行うこと。…その運脚は庸調の家に均等に負担させること。…




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■原典

・続日本紀




■史料

①和同開珎の鋳造〔続日本紀〕

 和銅元年春正月乙巳、武蔵国秩父の郡(1)、和銅(2)を献ず。…故慶雲五年を改めて和銅元年として御世の年号と定め賜ふ。…五月壬寅、始めて銀銭を行ふ。…八月己巳、始めて銅銭を行ふ。


②蓄銭叙位令〔続日本紀〕

 (和銅四年)冬十月甲子、…詔して曰く、夫れ銭の用たる、財を通じて有無を貿易する所以なり。当今、百姓尚習俗に迷ひて(3)未だ其の理を解せず。僅に売買すと雖も、猶銭を蓄ふる者無し。其の多少に随ひて節級して(4)位を授けん。其の従六位以下、蓄銭一十貫以上有らん者には、位一階を進めて叙す。廿貫以上には二階を進めて叙す。




■注釈

(1)現埼玉県秩父郡。  (2)精錬された銅のこと。  (3)「古い習慣に従って」の意。  

(4)「等級・段階を設けて」の意。




■現代語訳(口語訳)

省略




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■原典

・万葉集




■史料

 風雑へ 雨降る夜の 雨雑へ 雪降る夜は 術もなく 寒くしあらば 堅塩(1)を 取りつづしろひ(2) 糟湯酒(3) うち啜ろひて 咳かひ(4) 鼻びしびしに(5) しかとあらぬ(6) 髭かき撫でて 我を除きて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあらば 麻衾(7) 引き被り 布肩衣(8) 有りのことごと 服襲へども(9) 寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑゆらむ 妻子どもは 吟び泣く(10)らむ 此の時は 如何にしつつか 汝が世は渡る(11)



 天地は 広しといへど 吾が為は 狭くやなりぬる 日月は 明しといへど 吾が為は 照りや給はぬ 人皆か 吾のみや然る わくらばに(12) 人とはあるを 人並みに 吾も作るを(13)  綿も無き 布肩衣の 海松(14)の如 わわけさがれる(15) 襤褸(16)のみ 肩にうち懸け 伏廬(17)の 曲廬(18)の内に 直土(19)に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲み居て 憂へ吟ひ(20) 竈には 火気ふき立てず 甑(21)には 蜘蛛の巣懸きて 飯炊く 事も忘れて 鵺鳥(22)の 呻呤ひ(23)居るに いとのきて(24) 短き物を 端截る(25)と 云えるが如く 楚(26)取る 五十戸良が(27)声は 寝屋戸まで 来立ち呼ばひぬ 斯くばかり 術なきものか 世間の道 世間を憂しと やさしと(28)思へども 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

  山上憶良頓首謹みて上(たてまつ)る




■注釈

(1)塊りの粗製の塩のこと。 (2)少しずつ食べること。 (3)酒粕を湯に溶かした酒のこと。

(4)咳をするの意。 (5)鼻を啜ること。 (6)生えていないの意。 (7)麻の粗末な寝具のこと。

(8)麻製の袖なし服のこと。 (9)着重ねること。 (10)すすり泣くこと。

(11)この文までが問いの文で、以降が答えの文。 (12)たまたまの意。 (13)耕作すること。

(14)海藻のこと。 (15)破れてぶら下がるの意。 (16)「ぼろ」の意。 (17)屋根の潰れた家のこと。

(18)傾いた家のこと。 (19)「地面に直に」の意。 (20)「嘆きうめく」の意。

(21)米を生す道具のこと。 (22)「のどよふ」の枕詞。 (23)力のない声を出すこと。

(24)「極端に」の意。 (25)当時の諺と推定される。 (26)木の枝で作った笞のこと。

(27)里長のこと。 (28)「耐え難い」の意。




■現代語訳(口語訳)

 風まじりに雨が降り、その雨に混じって雪も降る。そんな夜はどうしようもなく寒いから、堅塩を少しずつ舐めては糟湯酒をすすり、咳をしては鼻水を啜りあげる。さして生えていない髭を撫でて、自分より優れた人はおるまいと自惚れているが、寒いから麻で作った夜具を被り、麻布の袖なしをありったけ重ね着してもそれでも寒い。こんな寒い夜には私よりも貧しい人とってその親は飢えてこごえ、その妻子は力のない声で泣くことになろうが、こういうときにはどうやってお前は生計を立てていくのか。

 天地は広いというが、私にとっては狭くなってしまったのだろうか。日や月は明るく照り輝いて恩恵を与えてくださるとはいうが、私のためには照ってはくださらないのだろうか。皆そうなのだろうか、それとも私だけなのだろうか。

 たまたま人間として生まれ、人並みに働いているのに、綿も入っていない麻の袖なしの、しかも海松のように破れて垂れ下がる、ぼろぼろのものを肩にかけ、低く潰れかけた家、傾いた家の中には地ベタに直に藁をひいて、父母は枕の方に、妻子は足の方に、自分を囲むようにして、悲しんだりうめいたりしており、かまどには火の気もなく、甑には蜘蛛の巣がはっていて、飯を炊くことも忘れたようで、力のない声でせがんでいるのに、短いものの端を切るという諺のように、笞をもった里長の声が寝床にまで聞こえてくる。

 世間を生きていくということはこれほどにどうしようもないものなのだろうか。この世の中を辛く身も痩せるように耐えがたく思うけれど、どこかへ飛んで行ってしまうこともできない。鳥ではないのだから。




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■原典

・続日本紀




■史料

(和銅)五年春正月乙酉、詔して(1)曰く、「諸国の役民 郷に還るの日、食糧(2)絶へ乏しくして、多く道路に饉ゑて 溝壑(3)に転填する(4)こと、其の類少なからず。国司等宜しく勤めて撫養(5)を加へ、量りて賑恤す(6)べし。もし死する者有らば、且つ埋葬を加へ、其の姓名を録して、本属に報ぜよ」と。


(和銅六年)三月壬午、…詔したまはく、「諸国の地、江山遐かに阻たって、負担の輩、久しく行役に苦しむ。資粮(7)を具へ備へんとすれば、納貢の恒数(8)を闕き、重負を減損せんとすれば、路に饉うるの少なからざることを恐る」




■注釈

(1)勅とともに天皇の命令を伝える文書のこと。 (2)労役に伴う旅費等の負担は自弁が原則であった。

(3)「道端」の意。 (4)「転がり落ちている」の意。 (5)「憐んで養う」の意。(6)「救済する」の意。

(7)「本籍地」の意。 (8)物資・食料のこと。




■現代語訳(口語訳)

(和銅)5年(712年)正月16日、詔の中で次のように述べられた。「諸国の役民は、労役を終えて郷里に帰る日に、食料が欠乏し、多くが帰路に飢えて道端の溝に転がり落ちてうまっているいったこことが少なくない。国司らはつとめて彼らを憐れんで養い、苦しんでいる状況に応じてものを与えて救うようにせよ。もし死者が出た場合には埋葬するとともに、死者の姓名を記録して本籍地の役所に報告せよ。」

(和銅)6年(713年)3月19日、…同様に次のように述べられた。「諸国の地は河や山によって都から遠く隔てられているので、調・庸などの輸送にあたる人民は、長い間ずっとその負担に苦しんでいる。行旅に必要な物資や食料を十分に用意しようとすれば、納入すべき税の規定数量を数量を欠くことになり、反対に行旅のための重い税を減らせば、旅の途中で飢えることが少ないのではないかと恐れる。」…。




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■原典

・続日本紀




■史料

 (養老元年)五月丙辰、詔して曰く、「率土の百姓(1)、四方に浮浪して、課役(2)を規避し、遂に王臣に仕へて、或は資人(3)を望み、或は得度(4)を求む。王臣本属を経ず、私に自ら駈使して、国郡に嘱請(5)して、遂に其の志を成す」…




■注釈

(1)国中の班田農民のこと。  (2)人頭税(庸・調・雑徭)の総称のこと。  

(3)位冠や官職に応じて配属され、調・庸は免除される。  (4)「出家」の意。  (5)頼み請うこと。




■現代語訳(口語訳)

 717年、詔が出された。「班田の中には、本籍を離れて浮浪し、調・庸などを納入せず、王族や上級官吏の資人になることや出家を望むものがいる。上級の官吏は本籍に知らせず、自分勝手に彼らを使い、国や郡に頼みこんで、思いのままに使っている。」…




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■原典

・続日本紀




■史料

 (養老七年四月)辛亥、太政官奏すらく、「頃者、百姓漸く多くして、田池窄狭なり。望み請ふらくは、天下に勧め課て、田疇(1)を開闢(2)せしめん。其の新に溝池を造り、開墾を営む者有らば、多少を限らず、給して三世(3)に伝へしめん。若し旧の溝池を逐はば、其の一身に給せん」と。奏可す。




■注釈

(1)田地のこと。  (2)「開墾」の意。

(3)「開墾した本人と子ども、本人の孫」とする説のほか、「子どもと孫、曾孫」とする説もある。




■現代語訳(口語訳)

 723年、太政官が天皇に奏上した。「近頃人口が増加し、班給する口分田が不足してきました。そこで、国中に奨励し、田地を開墾させようと考えております。新しく溝や池を作って開墾した者には、面積の大小に関わらず、3世代に渡って土地の私有を認めたいと思います。すでにある溝や池を利用して開墾した者には、本人に限り一代に限り私有を許可しようと思います」。これは許可された。




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■原典

・続日本紀




■史料

 (天平十五年五月)乙丑、詔して曰く、「如聞、墾田は、養老七年(1)の格に依て、限(2)満るの後、例に依て収授くと。是に由て農夫怠倦(3)して、地を開きて復た荒れぬ。今より以後、任に私の財と為して、三世一身を論ずること無く、咸悉に永年取ること莫れ。其の親王の一品(4)及び一位には五百町、二品及び二位には四百町、…六位已下八位已上には五十町、初位已下庶人に至るまでは十町。但し郡司には大領少領に三十町、主政主帳に十町」と。




■注釈

(1)「三世一身法」のこと。  (2)「期限」の意。  (3)「怠ける」の意。  (4)親王の階級の1つ。




■現代語訳(口語訳)

 743年、詔が出された。「墾田は三世一身法の期限が来ると収公される。そのため、百姓は怠けてしまい、土地を開墾してもまたすぐに荒れてしまう。今後は三世一身法によることなく墾田は永久に収公されない。開墾面積は、一品・一位は500町、初位から庶民は10町とする。」




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■原典

・続日本紀




■史料

① 国分寺建立の詔〔続日本紀〕

 (天平十三年三月)乙巳、詔して曰く、「…宜しく天下の諸国をして各敬んで七重の塔一区を造り、并に金光明最勝王経、妙法蓮華経各一部を写さしむべし。…又国毎の僧寺(1)には封(2)五十戸、水田十町を施し、尼寺(3)には水田十町。僧寺には必ず廿僧有らしめ、其の寺の名を金光明四天王護国之寺と為し、尼寺には一十尼あつて、其の寺の名を法華滅罪之寺と為す。両寺相共に宜しく教戒を受くべし」と。


② 大仏造立の詔〔続日本紀〕

 天平十五年歳癸未に次る十月十五日を以て、菩薩の大願(4)を発して盧舎那仏(5)の金銅像一躯を造り奉る。国銅を尽して象を鎔し、大山を削りて以て堂を構へ、広く法界に及ぼして朕が知識と為す。遂に同じく利益を蒙しめ共に菩提を致さしめん。夫れ天下の富を有つ者は朕也、天下の勢を有つ者も朕也。此の富勢を以て此の尊像を造る。事や成り易き心や至り難き。…もし更に人一枝の草一把の土を持ちて、像を助け造らんと情願する者有らば、恣に之を聴せ。




■注釈

(1)国分寺のこと。  (2)「封戸」の意。  (3)国分尼寺のこと。

(4)仏教を興隆して衆生を救おうとすること。  (5)華厳教の本尊のこと。




■現代語訳(口語訳)

① 741年、詔が出された。「各国ごとに七重の塔を一基つくらせ、金光明最勝王経と妙法蓮華経を一部ずつ写させよ。また国ごとの僧寺には封戸50戸と水田10町を、尼寺には水田10町を与える。

僧寺には必ず20人の僧をおき、寺の名を金光明四天王護国之寺(国分寺)とする。尼寺には10人の尼をおき、寺の名を法華滅罪之寺(国分尼寺)とする」と。


② 743年10月15日、菩薩の願いにより、盧舎那仏の金銅像一体をおつくりする。天下の富、天下の権勢を所持するものは私(聖武天皇)である。この富と権勢をもって、この大仏をつくるのである。大仏造立は容易であるが、造立の趣旨はなかなか理解されない。




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■原典

・日本後紀




■史料

 (延暦二十四年十二月)壬寅是の日、…中納言近衛大将従三位藤原朝臣内麻呂、殿上(1)に侍す。勅有りて、…天下の徳政を相論ぜしむ。時に緒嗣議して云ふ、「方今、天下の苦む所は、軍事(2)と造作(3)となり。此の両事を停むれば百姓安んぜむ」と。真道、異議を確執し、聴くことを肯んぜず。帝(4)、緒嗣の議を善しとす。即ち停廃に従ふ。




■注釈

(1)内裏の殿舎のこと。  (2)「蝦夷征討」の意。  (3)「平安京造営」の意。  (4)桓武天皇のこと。




■現代語訳(口語訳)

 延暦24(805)年、藤原朝臣内麻呂が内裏の殿舎に参上した。勅が出された。桓武天皇は藤原緒嗣と菅野真道に徳政論争をさせた。緒嗣は「現在、民衆を苦しめているのは蝦夷征討と平安京の造営です。この二大事業を停止すれば民衆は安らかになるでしょう。」と述べた。真道はこれに反対し、聞き入れようとはしなかった。桓武天皇は緒嗣の意見を採用し、二大事業を中止することとした。






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■原典

・類聚三代格




■史料

 太政官符す(1) 応に健児を差す(2)べき事

  大和国卅人 河内国卅人 和泉国廿人…

  常陸国二百人 近江国二百人…


 以前(3)、右大臣の宣(4)を被るにいわく、勅を奉るに、今、諸国の兵士、辺要の地(5)を除くの外は皆停廃に従へ。其れ兵庫(6)鈴蔵(7)及び国府等の類は、宜しく健児を差し以て守衛に充つべし、宜しく郡司の子弟を簡び差し、番を作りて(8)守らしむべし。




■注釈

(1)上級官庁から下級官庁へ下される文書のこと。  (2)「指定して徴発する」の意。

(3)「右の事柄について」の意。  (4)「右大臣の命令」の意。  

(5)西海道諸国と陸奥・出羽・佐渡を指す。  (6)武器庫のこと。

(7)駅鈴保管庫のこと。  (8)「交代の順番をつくって」の意。




■現代語訳(口語訳)

省略




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■原典

・本朝文粋




■史料

 臣去る寛平五年(1)備中介に任ぜらる。彼の国の下道郡に邇磨郷有り。爰に彼の国の風土記を見るに、皇極天皇六年(2)、…天皇筑紫に行幸し、将に救兵(3)を出さんとす。

 …路に下道郡に宿したまふ。

 …試みに此の郷の軍士を徴すに、即ち勝兵二万人を得たり。天皇大に悦びて、此の邑を名づけて二万郷と曰ふ。後に改めて邇磨郷と曰ふ。

 …而るに天平神護年中、右大臣吉備朝臣(4)、大臣を以て本郡の大領を兼ぬ。試みに此の郷の戸口を計ふるに、纔かに課丁千九百余人(5)あり。貞観の初め、故民部卿藤原保則朝臣(6)、彼国の介たりし時…大帳(7)を計るの次、其の課丁を閲するに、七十余人あるのみ。某任に到りて、又此の郷の戸口を閲するに、老丁二人、正丁四人、中男三人あり。去る延喜十一年、彼の国の介藤原公利、任満ちて都に帰る。清行、邇磨郷の戸口、当今幾何と問ふ。公利答へて曰く、「一人もあること無し」と。 

 …衰弊の速かなること、亦た既に此の如し。一郷を以て之を推すに、天下の虚耗、掌を指して知るべし。

一、応に水旱を消し、豊穣を求むべき事…

一、奢侈を禁ぜんことを請ふの事…

一、諸国に勅して見口の数に随ひて口分田を授けんことを請ふの事…




■注釈

(1)備中国の次官のこと。  (2)斉明天皇6年のことで660年のこと。

(3)「百済を救済するための出兵」の意。  (4)吉備真備のこと。  

(5)調庸及び雑用を負担するものを指す。  (6)民部卿の参議藤原保則のこと。




■現代語訳(口語訳)

 私、三善清行は893年に備中国の次官に任命された。備中国の下道郡に邇磨郷がある。この国の風土記には660年斉明天皇は筑紫に赴いて百済救済のために出兵しようとしていた。その途中でこの下道郡にて休まれた。天皇がその郷から兵士を徴集したら、すぐに優秀な兵士を2万人集めることができた。

 …天平神護年間に右大臣吉備真備が大臣とこの郡の大領を兼任した。この郡の人口を調査すると、課丁は1900人あまりであった。貞観初めには亡くなった民部卿の藤原保則が備中国の次官であった時、計帳をつくる際にその郷の課丁を調査してみると、70人あまりであった。

 …911年備中国の次官であった藤原公利が任期を終了して都へ帰ってきた。私が「邇磨の人口は現在どれくらいなのかと」と尋ねると、公利は「一人もいません」と答えた。

 …衰退は早いのはこの通りある。一つの郷のことから推察するに天下の荒廃は明らかだ。

(以下、略)





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■原典

・日本三代実録

・政事要略




■史料

① 日本三代実録

天安二年戊寅

摂政 従一位 藤良房五十五 十一月七日(1)宣旨にて摂政と為す。(公卿補任)

 

(清和天皇貞観八年八月)

 十九日辛卯、太政大臣に勅して、天下の政を摂行(2)せしむ。…

 
 

② 政事要略

摂政太政大臣(3)に万機(4)を関白せしむるの詔を賜ふ

詔すらく、「朕(5)、涼徳を以て茲に乾符を奉ず。…嗚呼三代(6)政を摂り、一心に忠を輸す。…其れ万機巨細、百官己に総べ、皆太政大臣に関白(7)し、然る後に奏下すること一に旧事の如くせよ。主者、施行せよ」と。

   仁和三年十一月廿一日




■注釈

(1)この日に清和天皇が即位した。  (2)「摂り行う」の意。

(3)藤原基経のこと。  (4)「全ての政務」の意。 (5)宇多天皇のこと。

(6)清和・陽成・光孝天皇の三代をさす。

(7)「関(あづか)り白(もう)す」の意。関白の語の初見。




■現代語訳(口語訳)

①省略


② 基経関白となる

 摂政太政大臣に政務全般を関白させる詔を賜うこと

 詔にいうには、「私は徳の薄い身でありながら、帝位についた。…(中略)…ああ、太政大臣は三代にわたって国政を担当し、一心に忠節を尽くしてきた。…(中略)…大小の政務一切について、太政大臣が官人全てを統括し、全て皆太政大臣を経て奏上し、下命することは従来の通りにせよ。担当者はこの詔を施行せよ」と。

 仁和3(887)年11月21日




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■原典

・小右記




■史料

(寛仁二年十月)十六日、乙巳。今日、女御(1)藤原威子を以て皇后に立つるの日也。前太政大臣(2)の第三の娘なり。一家三后を立つるは未だ曽て有らず。

 

 …太閤、下官を招き呼びて云く、「和歌を読まんと欲す。必ず和すべし」者(てえり)。答へて云く、「何ぞ和し奉らざらんや」と。又云く、「誇たる歌になむ有る。但し宿構(3)にあらず」者。「此の世をば我が世とぞ思ふ望月の虧(かけ)たる事も無しと思へば」余申して云く、「御歌優美なり。酬答に方無し。満座只此の御歌を誦すべし。…」と。諸卿、余の言に響応して数度吟詠す。太閤和解して殊に和を責めず。…




■注釈

(1)皇后、中宮なども含めた天皇の配偶者の一人。  (2)藤原道長のこと。

(3)「前々から準備していたもの」の意。




■現代語訳(口語訳)

寛仁2(1018)年10月16日、今日は女御の藤原威子を皇后に立てる日である。威子は前太政大臣の三女である。一家から三人の后が立つのは前例のないことである。…太閤が私を招いて「和歌を詠もうと思うが、君も必ず返歌を詠め」と言うので、「返歌をお詠みしましょう」と答えた。するとまた「誇らしく思ってつくった歌だが、あらかじめつくっていたものではない」といって、「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることも無しと思えば」と歌った。

 私は「この御歌は優美で、これに見合う返歌を詠むなどということはとてもできません。みな揃ってこの歌を唱和するのがよろしいでしょう。…」と。諸卿も私の言葉に応じて数度吟詠した。太閤も機嫌を良くして改めて返歌を求めなかった。…




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■原典

・平安遺文




■史料

尾張国郡司百姓等解(1)し申す官裁を請ふの事

 裁断せられんことを請ふ、当国の守藤原朝臣元命、三箇年内に責め取る非法の官物、幷びに濫行横法卅一箇条の愁状(2)

一、裁断せられんことを請ふ。例挙(3)の外に三箇年内に収納せる加徴の正税四十三万千二百四十八束の息利十二万九千三百七十四束四把一分の事…

一、裁定せられんことを請ふ、守元命朝臣、庁務なきに依りて(4)、郡司・百姓の愁ひを通じ難きの事…

一、裁断せられんことを請ふ、守元命朝臣、京より下向するに、毎度有官(5)・散位(6)の従類、同じく不善の輩を引率するの事…




■注釈

(1)上申する場合の文書を指す。  (2)不正を中央政府に訴え、審判を請うための文書のこと。

(3)定例の出拳のこと。  (4)「元命が国庁に現れないこと」の意。

(5)「官職についている者」をさす。  (6)「位のみで官位にのない者」のこと




■現代語訳(口語訳)

 尾張国の郡司と百姓が太政官の採決を申請すること。

 当国の守藤原元命が過去3ヵ年の間に行った非法な徴税と不法行為に関する31か条について採決をお願いします。

 一、定例の出拳の他に、3年間で正税43万1248束の利息として12万9374束4把1分を徴収したことについて裁断してください。

 一、国守元命が国衙で政務をとらないで、郡司や百姓の嘆願が伝わらないことについて裁断してください。

 一、国守元命が、京から下向するたびに有官・散位の従者やよからぬもの等を引きつれてくることについて裁断してください。…




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■原典

・今昔物語集




■史料

 今ハ昔、信濃ノ守藤原ノ陳忠ト云フ人有ケリ。任国ニ下テ国ヲ治テ、任畢ニケレバ上ケルニ、御坂ヲ越ル間ニ、多ノ馬共ニ荷ヲ懸ケ、人ノ乗タル馬、員知ラズ次キテ行ケル程ニ、多ノ人ノ乗タル中ニ、守ノ乗タリケル馬シモ、懸橋ノ鉉(1)ノ木後足ヲ以テ踏折テ、守逆様ニ馬ニ乗乍ラ落入ヌ。

…守ノ叫テ物云フ音、遙ニ遠ク聞ユレバ、…「『旅籠ニ縄ヲ長ク付テ下セ』ト宣フナ」ト。

…数ノ人懸リテ絡上グ。絡上タルヲ見レバ、守、…今片手ニハ平茸ヲ三総許持テ上リ給ヘリ。引上ツレバ、懸橋ノ上ニ居ヘテ、郎等共喜合テ、「抑モ此ハ何ゾノ平茸ニカ候フ」ト問ヘバ、…「汝等ヨ。宝ノ山ニ入テ、手ヲ空クシテ返タラム心地ゾスル。『受領(2)ハ倒ル所ニ土ヲ摑メ』トコソ云ヘ」ト。




■注釈

(1)橋の端のこと。  (2)国司で現地に赴任した者の中の最高責任者を指す。




■現代語訳(口語訳)

 信濃の国司で藤原陳忠という人がいた。任国に赴いて国を治め、任期が終了したので状況した。途中のにある御坂峠を越す際、荷物を積んだ馬や人の乗ったたくさんの馬が続いていた。

人を乗せた馬は多くいたが、信濃守の乗る馬が懸橋の端を後ろ足で折ってしまい、守とともに谷底に落ちてしまった。守の叫び声が微かに聞こえ…「旅籠に長い縄をつけて下せ」とおっしゃった。…多勢で引き上げると、守は手にきのこを3房ほど持って上がってきた。守を引き上げて橋の上に座らせ、郎党たちは喜び合いながら「このきのこは何ですか?」と尋ねると、「お前たち、宝の山に入って何も取らずに帰ってきたような心地だ。『受領は転んでもただでは起き上がらない』というではないか」と。




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■原典

・往生要集

・土佐日記




■史料

① 往生要集 (浄土教)

 それ往生極楽の教行は、濁世(1)末代(2)の目足(3)なり。道俗貴賤、誰か帰せざる者あらん。ただし顕密の教法(4)は、その文、一にあらず。事理の業因(5)、その行これ多し。利智精進の人は、いまだ難しと為さざらんも、予が如き頑魯の者(6)、あに敢てせんや。

 

 この故に、念仏の一門に依りて、いささか経論の要文を集む。これを披いてこれを修むるに、覚り易く行ひ易からん。惣べて十門あり。分ちて三巻となす。一には厭離穢土、二には欣求浄土、三には極楽の証拠、四には正修念仏…十には問答料簡(7)なり。これを座右に置きて廃忘(8)に備へむ。



② 土佐日記

 をとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみんとてするなり。それのとし(9)のしはすのはつかあまりひとひのひのいぬのとき(10)に、かどです。そのよし、いささかにものにかきつく。

 あるひと、あがた(11)のよとせいつとせはてて、れいのことどもみなし(12)をへて、げゆ(13)などとりて、すむたち(14)よりいでて、ふねにのるべきところへわたる。かれこれ、しるしらぬ、おくりす。としごろよくくらべつるひとびと(15)なん、わかれがたくおもひて、日しきりに(16)とかくしつつ、ののしる(17)うちによふけぬ。




■注釈

(1)「汚れた世」の意で、現世をさす。  (2)「末法の世の中」の意。

(3)「道標」の意。  (4)顕教と密教を含む、全ての仏教のこと。  (5)成仏するための修行のこと。

(6)「頑なで愚かな者」の意。  (7)問答を通して比較・思案すること。  (8)信心の廃れや忘れ去ること。

(9)紀貫之の土佐守着任は930年で、離任は934年のこと。  (10)午後7時〜9時ごろ。

(11)地方のこと。国司の意もある。  (12)国司交代の際の業務引き継ぎのこと。

(13)交代完了を示す証書のこと。  (14)国司の官邸を指す。親しくした人たちのこと。

(15)親しくした人たちのこと。  (16)「一日中」の意。  (17)「騒ぐ」の意。




■現代語訳(口語訳)

① 往生要集 

 極楽往生を遂げるための教えと修行は、汚れた末法の世の中の道標となるものである。道風貴賎みなこの教えに帰依するであろう。仏教では経文も1つではなく、成仏するための修行も多い。知恵があり仏筋に励むことができる人ならばそれほど困難でもなかろうが、私のような愚かな者には到底できないことである。

 このような理由で、念仏の教えにかぎって経論の中の重要な部分をかき集めてみた。この書を開いて学べば、教えも分かりやすく、修行も行いやすいであろう。内容は全部で10部門あり、3巻に分けてまとめてある。

 第一は現世を厭い離れること、第二は浄土を願い求めること、第三は極楽浄土を尊ぶべき証、第四は念仏の仕方…第十は問答による他の教えとの比較である。この書を座右におき、信心が薄れたり、忘れそうになった時の備えとしたら良いだろう。


② 土佐日記

 この日記は、男が書く日記というものを女も描いてみようと思って記したものである。ある年、2月21日の戌の刻に旅立ったが、その旅のことを書き記したものである。

 ある人が国士としての4〜5年の任期を終え、交代業務も済ませ、解由条も受け取ってそれまで住んでいた館から船乗り場へ移った。あの人この人、知っている人も知らない人も、たくさんの人が見送りにきた。親しくしていた人々からは特に別れがたく感じ、一日中何やかやとしつつ、騒いでいるうちに夜が開けた。





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■原典

・東寺百合文書




■史料

① 鹿子木荘(東寺百合文書)

鹿子木(1)の事

一、当寺の相承は、開発領主(2)沙弥(3)寿妙嫡嫡相伝也。

一、寿妙の末流高方(4)の時、権威を借らんが為に、実政卿(5)を以て領家と号し、年貢四百石を以て之を割き分ち、高方は庄家領掌進退(6)の預所職(7)となる。…

一、実政の末流の願西(8)微力の間、国衙の乱妨を防がず。是の故に願西、領家得分(9)二百石を以て、高陽院内親王(10)に寄進す。件の宮薨去の後、御菩提の為に、勝功徳院を立てられ、彼の二百石を寄せらる。其の後、美福門院(11)の御計として、御室(12)に進付せらる。是れ則ち本家の始め也。…


② 上桂庄(東寺百合文書)

寄進し奉る 所領の事

  合わせて壱所者。

   山城国上桂に在り。

    四至。東は桂川東堤の樹の東を限る。南は他領の堺(入り交る)を限る。西は五本松の下路を限る。北は□河の北梅津堺の大榎木を限る。

 右当所は、桂の津守建立の地也。津守、津公・兼枝・則光次第知行相違無し。爰に御威勢を募り奉らんが為に、当庄を以て永代を限り、院の女房大納言殿御局に寄進し奉る所也。中司職に至りては、則光の子子孫孫相伝すべき也。後日の為寄進の状件の如し。

   長徳三年九月十日   玉手則光 (判) 玉手則安 (判)




■注釈

(1)肥後国飽田郡にある鹿子木の荘。  (2)その土地を最初に開拓した領主のこと。

(3)在俗の僧のこと。  (4)中原高方のこと。  (5)藤原実政のこと。

(6)荘官として現地の支配権を握った。  (7)荘官で、下司などの下級荘官を指揮して現地を管理した。

(8)実政の曾孫藤原隆通の法名。  (9)職に伴う収益のこと。  (10)鳥羽院の娘を指す。

(11)高陽院内親王の母である得子のこと。  (12)京都の御室にある仁和寺のこと。




■現代語訳(口語訳)

① 鹿子木荘(東寺百合文書)

一、この荘園は開発領主の沙弥寿妙の子孫が代々受け継いできたものである。

一、寿妙の子孫高方の時、権威を借りるために藤原実政卿を領家として年貢の内400石を上納することとし、高方は荘園の現地を完全に支配する預所職となった。

一、実政の子孫の願西は力がなく、国衙の不当な干渉を防ぐことが出来なかった。そこで願西は領家の得分のうちの200石を上納するという条件で高陽院内親王に寄進した。内親王が亡くなった後は、菩薩を弔うために勝功徳院を建立され、その200石を寄進された。その後、内親王の母である美福門院の計らいで仁和寺に寄進された。これが荘園の本家の始まりである。


② 上桂庄(東寺百合文書)

省略




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■原典

・百錬抄

・愚管抄




■史料

①延久の荘園整理令

 (延久元年)寛徳二年以後の新立荘園を停止すべし。たといかの年以往(1)といえども、立券(2)分明ならず、国務に妨げる有るにおいては、おなじく停止するの由宣下す。…

 始めて記録庄園券契所を置く。寄人(3)等を定む。


②記録荘園券契所

 延久ノ記録書トテハジメテヲカレタリケルハ、諸国七道ノ所領ノ宣旨(4) 官符(5)モナクテ公田(6)ヲカスムル(7)事、一天四海ノ巨害ナリトキコシメシツメテテアリケルハ、スナハチ宇治殿(8)ノ時、一ノ所(9)ノ御陵御陵トノミ云テ、庄園諸国ニミチテ受領ノツトメタヘガタシナド云ウ、キコシメシモチタリケルニコソ(10)。サテ宣旨ヲ下サレテ、諸人領知ノ庄園ノ文書ヲメサレケルニ、宇治殿へ仰ラレタリケル御返事ニ、「皆サ心エラレタリケルニヤ。五十余年君ノ御ウシロミ(11)ヲツカウマツリテ候シ間、所領モチテ候者ノ強縁(12)ニセンナド思ヒツツヨセタビ(13)候ヒシカバ、サニコソナンド(14)申タルバカリニテマカリスギ候キ。ナンデウ文書カハ候ベキ。…」ト、サハヤカニ申サレタリケレバ、アダニ御支度相違ノ事ニテ、ムゴニ御案アリテ、別ニ宣旨ヲ下サリテ、コノ記録所ヘ文書ドモメスコトニハ、前太相国(15)ノ領ヲバノゾクト云 宣下(16)アリテ、中々ツヤツヤト御沙汰ナカリケリ。


■注釈

(1)「以前」の意。  (2)荘園として認められるための証拠となる書類のこと。  (3)「職員」の意。

(4)天皇の命令を伝える文書のこと。  (5)太政官が下す文書のこと。  (6)公領のこと。

(7)「横領する」の意。  (8)藤原頼通のこと。  (9)摂関家のこと。  

(10)「お聞きになっていた」の意。  (11)後見役のこと。

(12)「無理矢理に庇護を受けること」の意。  (13)「寄進」の意。

(14)「そうかと言って受け取ってきた」の意。  (15)前太政大臣頼通のこと。

(16)宣旨を下すこと。


■現代語訳(口語訳)

①延久の荘園整理令

 1069年、1045年以後成立した荘園は停止する。たとえそれ以前に成立した荘園でも証拠書類がなく、国務の妨げとなる荘園については停止する旨の天皇の命令が下された。記録荘園券契所を設置し、職員を任命した。


②記録荘園券契所




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■原典

・神皇正統記




■史料

  白河院…天下ヲ治メ給フコト十四年、太子ニユヅリテ尊号アリ。世ノ政ヲハジメテ院中ニテシラセ給フ。後ニ出家セサセ給ヒテモ猶ソノママニテ御一期(1)ハスゴサセマシマシキ。オリヰ(2)ニテ世ヲシラセ給フコト昔ハナカリシナリ。…マシテ此御代ニハ院ニテ政ヲキカセ給ヘバ、執柄ハタダ職ニソナハリタルバカリニナリヌ。

 サレドコレヨリ又フルキスガタハ一変スルニヤ侍ケン。執柄(3)世ヲオコナハレシカド、宣旨(4)・官符(5)ニテコソ天下ノ事ハ施行セラレシニ、此御時ヨリ院宣・庁御下文(6)ヲオモクセラレシニヨリテ在位ノ君又位ニソナハリ給ヘルバカリナリ。世ノ末ニナレルスガタナルベキニヤ。




■注釈

(1)「御一代」の意。  (2)「上皇」のこと。「天皇の位を降りて」の意。  

(3)摂政・関白のことで、その別称。  (4)天皇の命令を伝える文書のこと。  

(5)太政官符のこと。  (6)上皇の宣旨・院庁が出す伝達文書のこと。




■現代語訳(口語訳)

 白河天皇が政治をおこなったのは14年間で、その後退位して上皇となり院政を開始した。法皇となったあとも亡くなるまでそのまま院政をおこなった。退位した後も政治をおこなったことは昔はなかった。この時代は院政がおこなわれていたので、摂政や関白は名ばかりになってしまった。

 そしてこれより昔の政治の様子が変わってしまった。摂関政治の時代でも、宣旨や官符で政務がおこなわれていた。しかし、この時代から院宣や院庁下文が重視されるようになり、天皇は位に就いているだけとなった。末世の悲しむべき姿である。




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■原典

・平家物語

・愚管抄




■史料

① 僧兵の横暴〔平家物語〕

賀茂河の水、雙六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの


② 保元の乱に対する慈円の見解〔愚管抄〕

保元元年七月二日鳥羽院ウセサセ給ヒテ後、日本国ノ乱逆ト云コトハヲコリテ後、ムサノ世ニナリニケル也。

<br>

③ 平氏の繁栄〔平家物語〕

六波羅殿の御一家の君達といひてしかば、花族も栄耀も、面をむかへ肩をならぶる人なし。されば入道相国のこじうと、平大納言時忠卿ののたまひけるは、「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」とぞのたまひける。…

 一人は后にたたせ給ふ。王子御誕生ありて皇太子にたち、位につかせ給しかば、院号かうぶらせ給て建礼門院とぞ申ける。…

 日本秋津嶋は纔に六十六箇国、平家知行の国卅余箇国、既に半国にこえたり。其の外庄園田畠いくらといふ数を知ず。綺羅充満して、堂上花の如し。軒騎群集して、門前市をなす。




■注釈




■現代語訳(口語訳)




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■原典

・玉葉




■史料

 (寿永二年閏十月十三日)東海・東山・北陸三道の庄園国領(1)、本の如く領知(2)すべきの由、宣下せらるべきの旨、頼朝申し請う。仍て宣旨(3)を下さるるの処、北陸道許り義仲を恐るるに依り、其の宣旨を成されず。

 (寿永二年閏十月二十二日)先日の宣旨に云く、東海・東山道等の庄土、服せざらなる輩あらば、頼朝に触れ沙汰を致すべしと云々。




■注釈

(1)「公領」のこと。  (2)「本家や領家、国司が押領された土地を以前の形で支配する」こと。

(3)天皇の命令を伝える文書のこと。




■現代語訳(口語訳)

 東海・東山・北陸道の荘園や公領を、以前と同じように支配させよと命令していただきたいと頼朝が申し入れてきた。よって、宣旨を下されたが、義仲を恐れて北陸道だけは宣旨に加えなかった。

 先日の宣旨によると、東海・東山道の荘園・公領で宣旨に従わない者がいれば頼朝に命令によって追討させよということだ。


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■原典

・吾妻鏡

・玉葉




■史料

① 守護・地頭の設置〔吾妻鏡〕

(文治元年十一月)十二日辛卯、…凡そ今度の次第、関東(1)の重事たるの間、沙汰の篇、始終の趣(2)、太だ思食し煩ふの処、因幡前司広元(3)申して云ふ。世已に澆季、梟悪の者尤も秋を得たる也。天下に反逆の輩有るの条、更に断絶すべからず。而るに、東海道の内に於ては御居所たるに依て、静謐せしむと雖も、奸濫定めて他方に起らん歟。之を相鎮めんが為、毎度東士を発遣せらるるは、人人の煩也。国の費也。此の次を以て、諸国に御沙汰を交へ、国衙庄園毎に、守護地頭を補せらるれば、強ち怖るる所有るべからず。早く申し請けしめ給ふべしと云云。二品(4)殊に甘心し、此儀を以て治定す。

 諸国平均に守護地頭を補任し、権門勢下庄公(5)を論ぜず、兵糧米(6)(段別五升)を宛て課すべきの由、今夜、北条殿(7)、藤中納言経房卿(8)に謁し申すと云々。




② 守護・地頭の設置〔玉葉〕

 廿八日(丁未)、…又聞く、件の北条丸以下郎従等、相分ちて五畿・山陰・山陽・南海・西海の諸国を賜はり、庄公を論ぜず、兵粮(段別五升)を宛て催す(9)べし。啻に兵粮の催しのみにあらず、惣じて以て田地を知行(10)すべしと云云。凡そ言語の及ぶ所にあらず。




■注釈

(1)鎌倉幕府のこと。  (2)「前後の有様」の意。  (3)大江広元のこと。

(4)源頼朝のこと。  (5)「荘園・公領を問わず」の意。  (6)荘園や公領に課す米

(7)北条時政のこと。  (8)藤原経房のこと。  (9)「徴収する」の意。

(10)「土地を支配する」の意。




■現代語訳(口語訳)

① 守護・地頭の設置〔吾妻鏡〕

 1185年、この度の事は鎌倉幕府にとって重大なことで、頼朝は対策に苦慮していた。大江広元は「諸国に命じて、公領や荘園ごとに守護と地頭を任命すれば心配することはありません。…(中略)…早く朝廷に申請してください」と進言した。頼朝は関心して、このように決定した。

 諸国に守護・地頭を任命し、権勢の盛んな貴族・寺社の荘園や公領を問わず、兵粮米段別五升を課税するようにと、今夜北条時政が藤原経房に申し入れた。


② 守護・地頭の設置〔玉葉〕

 1185年、また聞くには例の北条時政以下の従者たちが、それぞれ五畿・山陰・山陽・南海・西海の諸国を賜り、荘園・公領を問わず兵粮米を徴収するだけでなく、土地の支配も行うということである。全く言語道断である。





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■原典

・吾妻鏡




■史料

尼将軍北条政子の訴え

 (承久三年五月)十九日壬寅、…二品(1)、家人等を 簾下に招き、秋田城介景盛(2)を以て示し含めて曰く、「皆心を一にして奉るべし。是れ最後の詞なり。故右大将軍(3)、朝敵を征罰し、関東を草創(4)してより以降、官位と云ひ、俸禄と云ひ、其の恩、既に山岳よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志浅からんや。而るに今、逆臣の讒に依りて非義の綸旨(5)を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討取り、三代の将軍の遺跡(6)を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべし」者、群参の士、悉く命に応じ、且つは涙に溺れて返報を申すこと委しからず。只命を軽んじて恩に酬いんことを思ふ。

■注釈

(1)北条政子のこと。  (2)安達泰盛(政子の側近)  (3)源頼朝のこと。  

(4)「鎌倉幕府創設」の意。  (5)北条義時追討の宣旨のこと。 (6)残された家や所領のこと。




■現代語訳(口語訳)

 1221年、北条政子は御家人らを集め、安達景盛に伝えさせた。「皆心を1つにして聞きなさい。これが最後の言葉です。源頼朝が平氏を滅し、鎌倉幕府を設立して依頼、官位・俸禄を頂戴した御恩は山よりも高く、海よりも深い。奉公の志は深いはず。しかし、今は逆臣の非難を受けて義時追討の宣旨が出ました。」(以下、省略)




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■原典

・神皇正統記




■史料

北畠親房の承久の乱論

 次ニ王者ノ軍ト云ハ、トガアルヲ討ジテ、キズナキヲバホロボサズ。頼朝高官ニノボリ、守護ノ職ヲ給、コレミナ法皇(1)ノ勅裁也。ワタクシニヌスメリトハサダメガタシ。後室(2)ソノ跡ヲハカラヒ、義時久ク彼ガ権ヲトリテ、人望ニソムカザリシカバ、下ニハイマダキズ有トイフベカラズ。一往ノイハレバカリニテ追討セラレンハ、上ノ御トガ(3)トヤ申ベキ。謀叛オコシタル朝敵ノ利ヲ得タルニハ比量セラレガタシ。カカレバ時ノイタラズ、天ノユルサヌコトハウタガヒナシ。




■注釈

(1)義白河法皇のこと。  (2)北条政子のこと。  (3)「後鳥羽上皇の罪」の意。




■現代語訳(口語訳)

 王者の戰とは、罪のあるものだけを討って、罪のないものは滅ぼさないものである。源頼朝が高官にのぼり、守護の職を得たのもご白河法皇の裁断である。自分勝手に奪ったものとはいえない。北条政子が後を継ぎ、北条義時は執権となるが、人望に背いていらず罪があるとはいえない。源氏が三代で途切れたという理由で義時を追討するのは、後鳥羽上皇の罪である。謀叛を起こした朝敵が勝利した例とは比較できないものである。そうであれば、機は熱しておらず、天も許さぬことであったのは疑いないことである。




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■原典

・新編追加




■史料

 去去年兵乱(1)以後、諸国庄園郷保(2)に補せらるる所の地頭(3)、沙汰の条条

一、得分(4)の事

 右、宣旨(5)の状の如くんば、仮令、田畠各拾一町の内、十町は領家国司の分、一丁は地頭の分、広博狭小を嫌はず、此の率法を以て免給するの上、加徴(6)は段別に五升を充て行なはるべしと云云。尤も以て神妙なり。但し此の中、本より将軍家の御下知を帯し、地頭たる輩の跡、没収の職として改補せらるるの所所に於ては、得分縦ひ減少す(7)と雖も、今更加増の限にあらず。是旧儀に依るべきの故也。加之、新補の中、本司(8)の跡、得分尋常(9)の地に至りては、又以て成敗に及ばず。只、得分無き所所を勘注し、宣下の旨を守り、計ひ充てしむべき也。

   貞応二年七月六日           前陸奥守(10) 判

    相模守殿(11)




■注釈

(1)承久の乱のこと。  (2)公領の単位を指す。  (3)新補地頭のこと。

(4)地頭に配分された収益のこと。  (5)太政官布にかわる文書形式で官宣旨のこと。

(6)租税への付加徴収のこと。

(7)「従来の地頭の収益率が新補地頭の収益率の基準を下回っても」の意。

(8)地頭が任命される以前にいた荘官のこと。  (9)「世間一般の水準」の意。

(10)執権北条時房のこと。  (11)六波羅探題北条時房のこと。




■現代語訳(口語訳)

 一昨年の兵乱以後、諸国の荘園と公領の郷・保に任命された地頭についての裁定の事ども

一、地頭の収益について

これについては宣旨の内容によると、例えば田畑各11町のうち、10町は領家や国司の取り分で、1町は地頭の取り分とし、面積の大小関わらず、この比率で給田を地頭に与えた上、課徴米として田畑1段につき5升を割り当てて支給するとのことであった。まことに立派な裁定である。




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■原典

・唯浄裏書、九月十一日付消息文




■史料

 さてこの式目をつくられ候ハ、なにを本説(1)として注し載せらるるの由、人さためて謗難(2)を加ふる事候歟。ま事にさせる(3)本文にすかり(4)たる事候はねとも、たたたうりのおすところ(5)を記され候者也。…(中略)…この式目ハ只かなをしれる物の世間におほく候ことく、あまねく人に心えやすからせんために、武家の人へのはからひのためはかりに候。あまりて京都の御沙汰、律令のおきて聊もあらたまるへきにあらす候也。




■注釈

(1)「基礎」の意。  (2)「非難」の意。  (3)「これといえるもの」の意。

(4)「よりどころ」「参考」の意。  (5)「道理の示すところ」の意。武家社会における慣習のこと。




■現代語訳(口語訳)

 この式目は何を基礎にして作成したのかと公家は非難するだろう。これと言えるものを参考にしたわけではなく、ただ武家社会の道理(慣例・道徳)を記したものである。この式目は仮名しか知らない者が世間には多いので、広く人々が理解しやすく、武家の人々への便宜のために定めたものである。これによって朝廷の法である律令が変わることはない。




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