【JH224】嘉吉の乱
■原典
・看聞日記
■史料
(嘉吉元年(1)六月)廿五日、晴れ。昨日の儀粗聞く。…(中略)…内方とどめく(2)。何事ぞと御尋ねあり。雷鳴かなど三条(3)申さるるの処、御後障子引あけて武士数輩出て則ち公方(4)討ち申す。
…(中略)…管領(5)・細川讃州(6)・一色五郎(7)・赤松伊豆(8)等は逃走す。其外人々右往左往し逃散す。御前に於て腹切る人なし。赤松落行き追懸けて討つ人なし。未練いわんばかりなし。諸大名同心か、その意を得ざる事なり。
所詮、赤松討ちたるべき御企て露見の間、遮りて討ち申すと云々。自業自得果たして力なき事か。将軍此の如き犬死、古来その例を聞かざることなり。
■注釈
(1)1441年のこと。 (2)邸内が騒々しいの意。 (3)三条実雅のこと。 (4)将軍足利義教のこと。 (5)細川持之のこと。 (6)細川成之のこと。(7)一色教親のこと。 (8)赤松貞村のこと。
■現代語訳(口語訳)
(嘉吉元年6月)25日、晴れ。昨日の事件のあらましを聞いた
…(赤松満祐邸の)奥が騒がしかったので(義教から)「何事であるのか」とお尋ねがあった。「雷鳴でしょうかと」などと三条実雅が申し上げていたところ、義教の背後の障子を引き開けて武士数人が飛び出し、将軍を討ち取った。…管領細川持之や細川成之・一色教親・赤松貞村等は逃げ出した。その他の人々も右往左往するばかりで逃げて散り散りになった。義教の遺体の前で切腹する者はいなかった。赤松満祐が(領地の播磨へ)落ちのびる際にも追いかけて討とうとする者もなかった。頼りがいのなさは言いようもない。諸大名たちは将軍殺害に同意していたのだろうか、その真意をはかりかねる事件である。
結局は義教が赤松満祐を討とうとする計画が露見したので、その先手をうって将軍を暗殺したということだ。自業自得であり仕方がないことであろう。将軍がこのように犬死するとは、これまでにそのような例を聞いたことがない。