【JH225】応仁の乱
■原典
・応仁記
■史料
応仁丁亥ノ歳(1)、天下大ニ動乱シ、ソレヨリ永ク五畿七道悉ク乱ル。其の起ヲ尋ルニ、尊氏将軍ノ七代目ノ将軍義政公ノ天下ノ成敗(2)ヲ有道(3)ノ管領ニ任セズ、只御台所(4)、或ハ香樹院(5)、或ハ春日局ナド云、理非ヲモ弁ヘズ、公事(6)政道ヲモ知リ給ハザル青女房(7)・比丘尼達、計ヒトシテ酒宴淫楽ノ紛レニ申沙汰セラレ、…
嗚呼鹿苑院(8)殿御代ニ倉役(9)四季ニカカリ、普広院殿(10)ノ御代ニ成、一年ニ十二度カカリケル。当御代(11)臨時ノ倉役トテ、大嘗会ノ有リシ十一月ハ九ケ度、十二月ハ八ケ度也。又彼借銭ヲ破ラントテ、前代未聞徳政ト云フ事ヲ此御代ニ、十三ケ度迄行レケレバ、倉方モ地下方(12)ヘ皆絶ハテケリ。…
不計万歳期セシ花ノ都(13)、今何ンゾ狐狼ノ伏土トナラントハ、適残ル東寺・北野(14)サヘ灰土ナルヲ。古ヘニモ治乱興亡ノナラヒアリトイヘドモ、応仁ノ一変ハ仏法王法法(15)トモニ破滅シ、諸宗悉ク絶ハテヌルヲ、不堪感歎、飯尾彦六左衛門尉、一首ノ歌ヲ詠ジケル
汝ヤシル都ハ野辺ノ夕雲雀アガルヲ見テモ落ルナミダハ」
■注釈
(1)1467年。 (2)政治の意。 (3)有能の意。 (4)義政の妻である日野富子のこと。 (5)将軍の女房のこと。 (6)裁判の意。 (7)若くて未熟な女房のこと。
(8)足利義満のこと。 (9)土倉にかかる税金のこと。 (10)足利義教のこと。 (11)足利義政のこと。 (12)京都と地方の土倉を指す。
(13)京都のこと。 (14)北野神社のこと。 (15)「仏の教えも国の法も」の意。
■現代語訳(口語訳)
応仁元(1467)年、世の中は大いに乱れ、それ以後長年にわたって全国全てが戦乱状態となった。その現人は、尊氏将軍から七代目の将軍義政公が、政治を有能な管領に任せず、奥方や香樹院、春日局などの道理もわからず裁判や政治も知らないような若い未熟な女房・海人たちの処理として、主演やたわむれの席でいい加減に片付けたことによる。…
義満の時代には土倉役が年に4回、義教の時代には年に12回かかっていた。現在の義政の時代には臨時として大嘗会のあった11月に9回、12月に8回であった。また土倉からの借金を破棄するために、今まで聞いたことのない徳政令というものをこの時代に13回出したので、京都や地方の土倉は没落してしまった。…
思いもよらぬ結果になった。永久に栄えると思われた花の都京都は、今や狐や狼のすみかとなってしまい、たまたま焼け残った東寺や北野神社さえも灰や土のかたまりのようになった。昔から治乱興亡は世の習いとはいうが、この応仁の乱によって仏教の教えも国の法も共に破滅し、諸宗も全て絶え果ててしまった。この歎きをおさえられずに、飯尾六左衛門尉が一首、歌を読んだ。
あなたはご存知でしょうか。都が焼け野原となって、夕暮にはひばりが空に飛び立って鳴く有様です。これを見るにつけても落ちる涙を止めることができません。