2023.05.25

【JH223】嘉吉の徳政一揆

■原典

・建内記(建聖院内府記)




■史料

 三日(1)丁酉(ひのととり)、…(中略)…近日四辺の土民蜂起す。土一揆と号し、御徳政と称して借物を破り、少分(2)を以て押して質物を請く。縡は江州より起こる。…(中略)…坂本・三井寺辺・鳥羽・竹田・伏見・嵯峨・仁和寺・賀茂辺物忩(3)(ぶっそう)にして常篇を絶す(4)。今日法性寺辺この事有りて火災に及ぶ。侍所多勢を以て防戦するもなお承引せず。土民数万の間防ぎえずと云々。賀茂の辺か、今夜の声を揚ぐ。

 …(中略)…今土民等代始(5)のこの沙汰先例と称す(6)と云々。




■注釈

(1)嘉吉元(1441)年の9月3日のこと。  (2)僅かな金銭の意。  (3)物騒の意。  (4)普通の状態ではないこと。  (5)同年6月に将軍義教が赤松満祐にされ、子の義勝が後を継いだ。  (6)正長の徳政一揆の際も、その年初に将軍義持が病死したことが発端となっていた。




■現代語訳(口語訳)

 嘉吉元(1441)年9月3日、…最近京都周辺の土民たちが蜂起した。彼らは土一揆だといい、徳政だといっては借金の証文を破り捨て、僅かな金額で無理やり質入れをした品物を取り返した。この動きは近江国から起こった。坂本・三井寺のあたり、鳥羽・竹田・伏見・嵯峨・仁和寺・賀茂のあたりは物騒で平常な状態ではない。今日は法性寺のあたりで騒ぎがあり、火災が起きた。侍所はたくさんの兵で防戦したが、一揆の輩はいうことを聞かず、土民は数万にも増えて防ぎ切れないという。賀茂の付近からか、今夜鬨の声をあげている。

 ….現在、土民たちは新将軍の代が代わったときに徳政を行うというのが、正長の時からの先例だと言っているそうだ。




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