【JH214】鎌倉新仏教
■原典
・歎異抄(悪人正機説)
・正法眼蔵随聞記(只管打坐)
・愚管抄
・一枚起請文(専修念仏)
■史料
① 悪人正機説〔歎異抄〕
一、「善人(1)なをもちて往生をとぐ、いはんや悪人(2)をや。しかるを、世のひとつねにいはく、『悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや』と。この条、一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善(3)の人は、ひとへに他力(4)をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願(5)にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。
煩悩具足(6)のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを哀たまひて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因(7)なり。よりて善人だにこそ往生すれ、まして悪人は」と仰さふらひき。
② 只管打坐〔正法眼蔵随聞記〕
一日弉問云、叢林(8)ノ勤学(9)ノ行履(10)ト云ハ如何。
示云、只管打坐(11)也。或ハ閣上、或ハ楼下ニシテ、常坐ヲイトナム。人ニ交リ物語ヲセズ、…常ニ独坐ヲ好ム也。
③ 愚管抄〔愚管抄〕
年ニソヘ日ニソヘテハ、物ノ道理(12)ヲノミ思ツヅケテ、老ノネザメヲモナグサメツツ、イトド、年モカタブキマカル(13)ママニ、世中モヒサシクミテ侍レバ、昔ヨリウツリマカル道理モアハレ(14)ニオボエテ、神ノ御代ハシラズ、人代トナリテ神武天皇ノ御後、百王トキコユル、スデニノコリスクナク、八十四代ニモ成ニケルナカニ、保元ノ乱イデキテノチノコトモ、マタ世継ガモノガタリト申モノモカキツギタル人ナシ。…世ノ道理ノウツリユク事ヲタテムニハ、一切ノ法ハタダ道理ト云二文字ガモツナリ。其ノ外ニハナニモナキ也。
④ 専修念仏〔一枚起請文〕
もろこし我朝もろもろの智者たちの沙汰し申さるる観念の念にもあらず、また学問をして念の心をさとりて申す念仏にもあらず、ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申せば、うたがひなく往生するぞと思とりて申外には別の子細候はず。
■注釈
(1)造寺や造仏、写経などの仏教的な善を行い、慈悲の心を持つ仏のような人のこと。
(2)善行をすることができない、煩悩の深い人のこと。
(3)自分の力で往生の正しい条件である善行をすること。 (4)「阿弥陀仏の本願」の意。
(5)阿弥陀仏の48の請願のうち、衆生を全て救済する第18請願のこと。
(6)煩悩を持ち、煩悩から逃れられないこと。 (7)「正しい条件」の意。
(8)禅宗寺院のこと。 (9)「修行」の意。 (10)「日常生活の行為」の意。
(11)ひたすら座禅を組むこと。
(12)歴史を動かす原理のこと。 (13)「終わりに近づくこと」の意。
(14)「心に愛着を感じる」の意。
■現代語訳(口語訳)
① 悪人正機説〔歎異抄〕
「善人でさえ往生できる、まして悪人が往生できないことはない。しかし、世間の人は『悪人が往生できるなら、善人が往生できないわけがない』という。これはそれなりの道理をもってはいるが、弥陀の本願にすがるという趣旨に背いている。自分の知恵と力で善を為そうとする人は、弥陀の本願にすがる気持ちが欠けているため、弥陀の救済する対象ではないからである。
私たちはどんな修行をしても煩悩から逃れられないのを哀れにお思いになり、弥陀が本願を起こされた真意は悪人を成仏させることにある。ひたすら弥陀の本願にすがる悪人こそが救われるのである。よって善人さえ往生できる。まして悪人は言うには及ばない」と親鸞上人は仰られた。
② 只管打坐〔正法眼蔵随聞記〕
ある日、弟子の懐奘が「禅宗寺院の修行や日常生活の行為とはどのようなものですか」と尋ねた。それに道元は「只管打坐である。寺院の建物内外で、人と話もせず、常に座禅を好むことである」と答えた。
③ 愚管抄〔愚管抄〕
年月が経つにつれ、歴史を動かす原理のことばかりを考えてきた。老いて寝覚めがちな夜もそのことを考えて気持ちを慰めてきたが、私の障害も終わりになろうとしている。世の中を色々と見てきたから、昔から変化してきた道理に愛着を感じている。世の中の道理の変化を考えると、全ては道理という二文字に支えられ、そのほかには何もない。
④ 専修念仏〔一枚起請文〕