【JH201】福原京遷都
■原典
・方丈記
■史料
治承四年水無月の比、にはかに都遷り侍りき。いと思ひの外なりし事なり。おほかた、この京(1)のはじめを聞ける事は、嵯峨の天皇の御時、都と定まりにけるより後、すでに四百余歳(2)を経たり。ことなるゆゑ(3)なくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人安からず憂へあへる、実にことわりにも過ぎたり。
されど、とかくいふかひなくて(4)、帝(5)より始め奉りて、大臣・公みな悉く移ろひ給ひぬ。…
軒を争ひし人のすまひ、日を経つつ荒れゆく。家はこぼたれて(6)淀河に浮び(7)、地は目のまへに畠となる。人の心みな改まりて、ただ馬・鞍をのみ重くす。牛・車を用する人なし(8)。西南海の領所を願ひて、東北の庄園を好まず(9)。
■注釈
(1)平安京のこと。 (2)平城太上天皇の変をもとに、「方丈記」の成立年を考慮すると400年ほど。
(3)「特別な根拠」の意。 (4)「言っても始まらないので」の意。 (5)安徳天皇を指す。
(6)「家が取り壊されて」の意。 (7)解体後に筏として組まれ、大阪湾まで運ばれた。
(8)当時の風俗が、公家風から武家風へと転換していたことを示す。
(9)西海道と南海道はいずれも平氏の勢力下にあり、東海道・東山道・北陸道は源氏の勢力下にあったため、荘園の年貢徴収状況はあまり良くなかった。
■現代語訳(口語訳)
治寿4(1180)年、6月ごろ急に遷都が行われた。全く思いがけないことであった。だいたいこの平安京のはじまりについて聞いていることは、嵯峨天皇の御代に都と定まったもので、その後今日まで、すでに400年以上も経過したのである。都というものは特別な理由もないのに簡単に変わるべきではないものでもないので、今度の遷都について人々がひととおりでなく心配しあったのも、誠に当然すぎることであった。
しかし、あれこれいっても仕方がないので、天皇をはじめとして大臣・公卿の全てが新都へお移りになった。
軒を並べて建っていた住宅は日に日に荒れていった。家は取り壊され、その材木は淀川に浮かび、宅地はみるみるうちに畑となってしまう。人の考え方も変化して、馬・鞍ばかりが大切にされている。牛や車を用いる人はいない。西海道・南海道方面の領地をもらうことを願って、東国・北陸方面の荘園を好まない。