【JH218】守護請
■原典
・高野山文書
■史料
①高野山文書(一)
高野領備後国太田庄并に桑原方地頭職尾道倉敷以下の事。
下地に於ては知行致し、年貢に至りては毎年千石を寺納すべきの旨、山名右衛門佐入道常熙に仰せられ畢ぬ。早く存知すべきの由、仰せ下さるる所也。仍て執達件の如し。
応永九年七月十九日 沙弥(花押)
当寺衆徒中
②高野山文書(二)
高野山根本大塔雑掌(1)賢成 謹んで言上す
備後国太田庄并に桑原方地頭職尾道倉敷等未進の事
右、彼庄は…然るに鹿苑院(2)殿の御代応永九年、故山名右衛門佐殿請所の由申され、寺納千石の御教書成し下さるる間、愁訴を含むと雖も上意に応じ奉る処(3)、結句年年の未進、去る応永九年より永享十一年に至る二万六百余斛。
目録別紙に之在り。…所詮、公方御累代の御願并に頼朝大将の御判、殊には鹿苑院殿様度度の御判の旨に任せ、元の如く寺家直務の御成敗を蒙らば、満山愁眉を開き、弥御祈■の精誠を抽んじ奉らん為に、粗謹んで言上件の如し。
永享十二年三月 日
■注釈
(1)荘官の名称で預所の別称。 (2)足利義満のこと。 (3)守護請には反対してきたが、遂に幕府の命令を受けてしまった。
■現代語訳
①高野山文書(一)
※略
②高野山文書(二)
(1440年)高野山根本大塔の荘官賢成が謹んで申し上げる。
備後国(現広島県)太田庄と藤原郷の地頭職、尾道の倉敷等の年貢未納のこと
これらの荘園は足利義満公の時代の1402年に、守護であった亡き山名右衞門佐殿の守護請の荘園として年貢1000石を寺納することとなりました。寺側は、守護請には反対してきましたが、遂に幕府の命令を受けることとなりました。しかし、結局毎年年貢を滞納し、1402年から1439年まで2万600余石の未納となっている。…
(以下、省略)