【JH123】三善清行の封事「意見十二箇条」
■原典
・本朝文粋
■史料
臣去る寛平五年(1)備中介に任ぜらる。彼の国の下道郡に邇磨郷有り。爰に彼の国の風土記を見るに、皇極天皇六年(2)、…天皇筑紫に行幸し、将に救兵(3)を出さんとす。
…路に下道郡に宿したまふ。
…試みに此の郷の軍士を徴すに、即ち勝兵二万人を得たり。天皇大に悦びて、此の邑を名づけて二万郷と曰ふ。後に改めて邇磨郷と曰ふ。
…而るに天平神護年中、右大臣吉備朝臣(4)、大臣を以て本郡の大領を兼ぬ。試みに此の郷の戸口を計ふるに、纔かに課丁千九百余人(5)あり。貞観の初め、故民部卿藤原保則朝臣(6)、彼国の介たりし時…大帳(7)を計るの次、其の課丁を閲するに、七十余人あるのみ。某任に到りて、又此の郷の戸口を閲するに、老丁二人、正丁四人、中男三人あり。去る延喜十一年、彼の国の介藤原公利、任満ちて都に帰る。清行、邇磨郷の戸口、当今幾何と問ふ。公利答へて曰く、「一人もあること無し」と。
…衰弊の速かなること、亦た既に此の如し。一郷を以て之を推すに、天下の虚耗、掌を指して知るべし。
一、応に水旱を消し、豊穣を求むべき事…
一、奢侈を禁ぜんことを請ふの事…
一、諸国に勅して見口の数に随ひて口分田を授けんことを請ふの事…
■注釈
(1)備中国の次官のこと。 (2)斉明天皇6年のことで660年のこと。
(3)「百済を救済するための出兵」の意。 (4)吉備真備のこと。
(5)調庸及び雑用を負担するものを指す。 (6)民部卿の参議藤原保則のこと。
■現代語訳(口語訳)
私、三善清行は893年に備中国の次官に任命された。備中国の下道郡に邇磨郷がある。この国の風土記には660年斉明天皇は筑紫に赴いて百済救済のために出兵しようとしていた。その途中でこの下道郡にて休まれた。天皇がその郷から兵士を徴集したら、すぐに優秀な兵士を2万人集めることができた。
…天平神護年間に右大臣吉備真備が大臣とこの郡の大領を兼任した。この郡の人口を調査すると、課丁は1900人あまりであった。貞観初めには亡くなった民部卿の藤原保則が備中国の次官であった時、計帳をつくる際にその郷の課丁を調査してみると、70人あまりであった。
…911年備中国の次官であった藤原公利が任期を終了して都へ帰ってきた。私が「邇磨の人口は現在どれくらいなのかと」と尋ねると、公利は「一人もいません」と答えた。
…衰退は早いのはこの通りある。一つの郷のことから推察するに天下の荒廃は明らかだ。
(以下、略)