【JH115】貧窮問答歌 〔万葉集〕
■原典
・万葉集
■史料
風雑へ 雨降る夜の 雨雑へ 雪降る夜は 術もなく 寒くしあらば 堅塩(1)を 取りつづしろひ(2) 糟湯酒(3) うち啜ろひて 咳かひ(4) 鼻びしびしに(5) しかとあらぬ(6) 髭かき撫でて 我を除きて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあらば 麻衾(7) 引き被り 布肩衣(8) 有りのことごと 服襲へども(9) 寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑゆらむ 妻子どもは 吟び泣く(10)らむ 此の時は 如何にしつつか 汝が世は渡る(11)
天地は 広しといへど 吾が為は 狭くやなりぬる 日月は 明しといへど 吾が為は 照りや給はぬ 人皆か 吾のみや然る わくらばに(12) 人とはあるを 人並みに 吾も作るを(13) 綿も無き 布肩衣の 海松(14)の如 わわけさがれる(15) 襤褸(16)のみ 肩にうち懸け 伏廬(17)の 曲廬(18)の内に 直土(19)に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲み居て 憂へ吟ひ(20) 竈には 火気ふき立てず 甑(21)には 蜘蛛の巣懸きて 飯炊く 事も忘れて 鵺鳥(22)の 呻呤ひ(23)居るに いとのきて(24) 短き物を 端截る(25)と 云えるが如く 楚(26)取る 五十戸良が(27)声は 寝屋戸まで 来立ち呼ばひぬ 斯くばかり 術なきものか 世間の道 世間を憂しと やさしと(28)思へども 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
山上憶良頓首謹みて上(たてまつ)る
■注釈
(1)塊りの粗製の塩のこと。 (2)少しずつ食べること。 (3)酒粕を湯に溶かした酒のこと。
(4)咳をするの意。 (5)鼻を啜ること。 (6)生えていないの意。 (7)麻の粗末な寝具のこと。
(8)麻製の袖なし服のこと。 (9)着重ねること。 (10)すすり泣くこと。
(11)この文までが問いの文で、以降が答えの文。 (12)たまたまの意。 (13)耕作すること。
(14)海藻のこと。 (15)破れてぶら下がるの意。 (16)「ぼろ」の意。 (17)屋根の潰れた家のこと。
(18)傾いた家のこと。 (19)「地面に直に」の意。 (20)「嘆きうめく」の意。
(21)米を生す道具のこと。 (22)「のどよふ」の枕詞。 (23)力のない声を出すこと。
(24)「極端に」の意。 (25)当時の諺と推定される。 (26)木の枝で作った笞のこと。
(27)里長のこと。 (28)「耐え難い」の意。
■現代語訳(口語訳)
風まじりに雨が降り、その雨に混じって雪も降る。そんな夜はどうしようもなく寒いから、堅塩を少しずつ舐めては糟湯酒をすすり、咳をしては鼻水を啜りあげる。さして生えていない髭を撫でて、自分より優れた人はおるまいと自惚れているが、寒いから麻で作った夜具を被り、麻布の袖なしをありったけ重ね着してもそれでも寒い。こんな寒い夜には私よりも貧しい人とってその親は飢えてこごえ、その妻子は力のない声で泣くことになろうが、こういうときにはどうやってお前は生計を立てていくのか。
天地は広いというが、私にとっては狭くなってしまったのだろうか。日や月は明るく照り輝いて恩恵を与えてくださるとはいうが、私のためには照ってはくださらないのだろうか。皆そうなのだろうか、それとも私だけなのだろうか。
たまたま人間として生まれ、人並みに働いているのに、綿も入っていない麻の袖なしの、しかも海松のように破れて垂れ下がる、ぼろぼろのものを肩にかけ、低く潰れかけた家、傾いた家の中には地ベタに直に藁をひいて、父母は枕の方に、妻子は足の方に、自分を囲むようにして、悲しんだりうめいたりしており、かまどには火の気もなく、甑には蜘蛛の巣がはっていて、飯を炊くことも忘れたようで、力のない声でせがんでいるのに、短いものの端を切るという諺のように、笞をもった里長の声が寝床にまで聞こえてくる。
世間を生きていくということはこれほどにどうしようもないものなのだろうか。この世の中を辛く身も痩せるように耐えがたく思うけれど、どこかへ飛んで行ってしまうこともできない。鳥ではないのだから。