【JH109】遣隋使の派遣
■原典
・隋書倭国伝
・日本書紀
■史料
①「隋書」倭国伝
大業三年(1)、其の王多利思比孤、使を遣わして朝貢す。使者曰く、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来りて仏法を学ぶ」と。其の国書に曰く、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや、云云」と。帝(2)、之を覧て悦ばず、鴻臚卿(3)に謂って曰く、「蛮夷の書、無礼なる者有らば、復た以て聞する勿れ」と。明年、上(4)、文林郎(5)裴清を遣わして倭国に使せしむ。
②「日本書紀」
(推古天皇十五年)…。大礼(6)小野臣妹子を大唐(7)に遣わす。鞍作福利を以て通事(8)とす。…十六年夏四月小野臣妹子、大唐より至る。…則ち復た小野妹子臣を以て大使とす。吉士雄成を小使として、…爰に天皇(9)、唐の帝(10)を聘ふ。其の辞に曰く、「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す。…」と。是の時に、唐の国に遣わす学生は、倭漢直福因、奈羅訳語恵明、高向漢人玄理、新漢人大圀、学問僧新漢人日文、南淵漢人請安、志賀漢人恵隠、新漢人広済等併せて八人なり。
■注釈
(1)607年。 (2)煬帝。 (3)外国使節の接待を掌る官庁長官。 (4)煬帝。
(5)秘書省文林郎(従八位)。 (6)冠位十二階5番目の官位。 (7)隋。 (8)通訳
(9)推古朝での天皇成立説の根拠の1つ。 (10)煬帝
■現代語訳(口語訳)
①607年、倭王が使者を派遣して朝貢してきた。使者は「海の西の隋の天子が仏法を大変盛んにされたと聞いています。そのため私が派遣され、天子にご挨拶をして僧侶数十人が仏法を学ことになりました。」と言った。その国書には「日の昇る東の国の天子が、日の沈む西の国の天子に国書を送ります。お変わりはありませんか」とあった。煬帝はこれを見て喜ばず、「倭の国書は無礼である。二度と上奏するな」と鴻臚卿に言った。翌608年、煬帝は文林郎の裴世清を倭国に派遣した。
②607年。大礼の小野妹子を隋に派遣した。鞍作福利を通訳とした。…再び小野妹子を使者とした。吉土雄成を副使として隋へと派遣し、天皇は隋の皇帝へ書状を送った。書状には「東の天皇が、西の皇帝に謹んで申し上げる」とあった。この時、隋に派遣した学生は倭漢直福因、奈羅訳語恵明、高向漢人玄理、新漢人大圀、学問僧新漢人日文、南淵漢人請安、志賀漢人恵隠、新漢人広済等幷て八人である。