2021.12.11

【JH107】仏教の公伝

■原典

・上宮聖徳法王帝説

・日本書紀




■史料

①上宮聖徳法王帝説

 志癸嶋天皇(1)の御世に、戊午の年の十月十二日に、百済国の主明王(2)、始めて仏の像経教并せて僧等を渡し奉る。勅して蘇我稲目宿禰の大臣に授けて興し隆えしむ。

 継体天皇即位十六年壬寅、大唐の漢人案部村主司馬達止(3)、此の年の春二月に入朝す。即ち草堂を大和国高市郡坂田原に結び、本尊を安置し、帰依礼拝す。世を挙げて皆云ふ、「是れ大唐の神なり」と。



②日本書紀

 (欽明天皇十三年)冬十月、百済の聖明王、…(中略)…釈迦仏に金銅像一躯、幡蓋若干,経論若干巻を献る。…群臣に歴問して日く、「西蕃の献れる仏の相貌端厳し。全ら未だ曽て有らず。礼ふべきや不や」と。蘇我大臣稲目宿禰(4)奏して日さく、「西蕃の諸国、一に皆礼ふ…」と。

 物部大連尾輿(5)・中臣連鎌子(6)、同じく奏して日さく、「我が国家の、天下に王とましますは、恒に天地社稷の百八十神を以て、春夏秋冬、祭拝りたまふことを事とす。方に今改めて蕃神を拝みたまはば、恐らくは国神の怒りを致したまはむ」と。天皇日く、「宜しく情願ふ人,稲目宿禰に付けて、試に礼ひ拝ましむべし」と。




■注釈

(1)欽明天皇  (2)百済の聖明王  (3)鞍作鳥(止利仏師)の祖父

(4)蘇我馬子の父  (5)物部守屋の父  (6)詳細不詳、鎌足とは異なる人物とされる




■現代語訳(口語訳)

①上宮聖徳法王帝説

 欽明天皇の治世である538年10月12日、百済の聖明王がはじめて仏像・経典と僧を送ってきた。天皇は勅を発して蘇我稲目に与え、仏教を盛んにさせた。〜以下、略〜

②日本書紀

 欽明天皇十三年(552年)冬十月に百済の聖明王が…釈迦仏の金銅像一体、幡と蓋若干、経論若干巻を献上してきた。…、天皇は群臣ひとりひとりに「西蕃が献上した仏の相貌は美しく厳かなもので、今までに全くなかったものである。礼拝すべきか否か」と尋ねた。蘇我大臣稲目はこう奏上した。「西蕃の諸国は皆礼拝しております。日本だけが背くべきではありません。」

 物部大連尾興と中臣連鎌子はこう奏上した。「わが国では天下の王として臨まれる方は、常に天地の多くの神々を春夏秋冬お祀りになることをつとめとしています。今それをあらためて蕃神を礼拝されるならば、恐らくは国神の怒りを招かれましょう。」天皇は「礼拝したいと願っている稲目にさずけ、試みに礼拝させてみよう」といわれた。




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